NHKの大河ドラマ「真田丸」で、真田信繁(幸村)、真田信幸、真田昌幸といった真田家の人々に劣らない存在感を見せているのが、山本耕史さん演じる石田三成(1560〜1600)です。
主君である豊臣秀吉が無理難題を押し付けてきても、動ぜず、冷静に対応。着実に仕事をこなしていく“デキる家臣”として、「真田丸」では描かれています。確かに三成が非常に気配りのできるスマートな人物であったことを示す有名なエピソードがあります。
豊臣秀吉が鷹狩りの帰り、ある寺に寄って茶を所望しました。対応した寺の小姓は、最初に大ぶりの茶わんにぬるめの茶を一杯差し出しました。喉の渇いていた秀吉はそれを一気に飲み干し、もう一杯所望。すると小姓は、今度は小さめのわんにやや熱く点てた茶を差し出しました。秀吉が試みにもう一杯望むと、今度は小さめのわんに熱くたてた茶を出しました。相手の様子に応じて茶の出し方を変える心遣いに感心した秀吉は、この小姓、後の石田三成を連れ帰って家臣にしたというエピソードです。
史料などから見ると、この逸話が後世のつくり話である可能性は否定できません。しかし、こうしたエピソードが語られるほど、頭の回転が速く、気配りの利く人物だったのでしょう。だからこそ、上司である秀吉に気に入られて側近として重用されます。
秀吉の下で、順調に出世した三成でしたが、最終的には天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いで敗れ、自らも命を落とすことになります。なぜ、このような結末を迎えたのか。
確かに、三成の武将として才能に疑問符を付ける向きもあります。小説や映画の『のぼうの城』でも描かれた「忍城の水攻め」(現在の埼玉県行田市にあった北条氏側の城を攻めた戦い)では、敵の10倍もの兵力で攻めながら手間取っています。しかし、三成が“戦下手”だったから関ヶ原で敗れたのかといえば、必ずしもそうとはいえないように思います。敗北の原因は、戦場に立つ以前の味方づくりの失敗だったのではないでしょうか。
先にも述べたように、三成は若い頃から側近として、秀吉を支えていきました。その結果、豊臣家の重臣になりましたが、それは加藤清正ら各地で戦功を重ねてきた武断派の武将たちとは一線を画す、いわば文治派のトップといった立場です。
秀吉が行った太閤検地で重要な役割を担い、秀吉の九州平定の際は兵糧や武具などの調達を担当。対外進出を図った文禄・慶長の役では明との講和交渉に活躍するなど、豊臣家屈指の行政能力を持つ官僚としてキャリアを重ねていきました。秀吉は武功に応じて家臣に所領を与えましたが、その所領には必ず直轄地を設けました。この直轄地の代官に三成が当てられたため、家臣からは密告者と見られることも多かったといいます。
文禄・慶長の役の際には、最前線の大名の動向を秀吉に伝える役を務めました。三成は正確に伝えようとしただけなのかもしれませんが、失敗の情報まで秀吉の耳に入れてしまうことになります。当然、現地で苦労する大名たちからすれば面白いはずがありません。特に、加藤清正、福島正則、黒田長政ら豊臣家の武勇の誉れ高い大名にとっては、「たいした武勲もないのに、秀吉に告げ口する」と、三成は反感を買うことになってしまったようです。
この反感が爆発したのが、1598年に秀吉が亡くなった翌年のことです。武断派の大名らが三成を襲撃したのです。難を逃れることに成功した三成ですが、このとき仲裁に当たった徳川家康の評価を高めることになってしまいます。
ビジネスにも共通する、「人心」の大切さ
1600年に起こった関ヶ原の戦いは、三成を中心とした西軍と、家康を中心とした東軍の覇権争いでした。各地の大名はそれぞれの思惑によって東西いずれかの軍に加わりました。
このとき、清正、正則、長政らが参加した東軍は、「三成討つべし」との考えの下に強く団結したものの、西軍に加わった大名たちは家康に対する敵意が薄く、戦意はそれほど高くなかったといわれています。
合戦の最中、有力大名の一人、小早川秀秋が西軍から東軍へと寝返ったこともあり、関ヶ原での三成側の敗退が決まりました。この秀秋は、かつて文禄・慶長の役で手柄を立てたものの、三成によって過小な評価で秀吉に報告されたため、領地を取り上げられたという説があります。またこのとき、家康のとりなしによって旧領への復帰がかなったともいわれています。この話が真実なら、小早川秀秋の関ヶ原での裏切りは、三成から受けた仕打ちと家康への恩義から行われたものだったことになります。
関ヶ原の戦い以降に語られてきた三成像には、勝者である徳川側の影響が及んでいます。しかし、そうしたバイアスを取り払っても、優秀な人間像の裏側にあった三成の弱点が垣間見えてきます。
それは人心掌握術です。三成が豊臣家を支える同僚である武断派の武将に、秀吉に対するのと同じような気配りを見せて味方にしていたら、その後の歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか。
ビジネスでも、いくらトップに忠実で実務に長けていても、同僚の心もつかみ味方にしなければ目標達成に向けて社内の支援が得られにくくなってしまいます。それでは結果的に、関ヶ原の戦いのような全社を巻き込んだビッグプロジェクトでは失敗を招くことになりかねません。
三成は、関ヶ原の戦いに当たって自分がトップに立とうとしたわけではありません。西軍の総大将として中国地方の有力大名、毛利輝元を据えています。つまり形式上は、西軍・輝元と東軍・家康の戦いだったわけです。それでも実質的に三成が差配した西軍に、秀吉恩顧の同僚たちのかなりは背を向けました。
関ヶ原の敗因として、戦場における小早川秀秋らの裏切りは大きなポイントであったのは確かです。しかし、それ以前の問題として、豊臣家を支えるはずの同僚の分裂がありました。気配りによって秀吉というトップの信頼はガッチリと得ることがきましたが、その一方で、同僚の心はつかむことができなかった三成。組織における処世術として学ぶ点は大きそうです。