織田、武田、北条など多くの大名が覇を競った戦国時代。その争いを家臣として支え、補佐役として活躍した武将は枚挙にいとまがありません。その中には、仕えた主君はもちろん、そのライバルの名将からも高い評価を受けた武将がいます。その代表格の1人が、今回紹介する直江兼続(1560~1619)です。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」で、妻夫木聡さんがさわやかに主役の兼続を演じたことを覚えている方も多いと思います。
兼続は、幼少時から仕えた上杉景勝から厚く信頼され続けました。それだけなく、天下人である豊臣秀吉からは「天下を収める立場に立っても見事にやってのける者」と評価されます。さらに、関ヶ原の戦いで敵対した徳川家康からも一目置かれました。
景勝の信頼の下、上杉家を取り仕切る
兼続は1560年に樋口兼豊の長男として越後(現・新潟県)で生まれ、幼い頃から越後の春日山城を居城とする上杉景勝(上杉謙信の養子)に仕えます。後世に忠臣としてたたえられた兼続の人生の始まりです。
謙信には、景勝の他にもう1人養子がいました。北条家出身の景虎です。1578年に謙信が亡くなると、景勝と景虎の間に後継者争いが勃発。越後を二分するといわれた御館の乱で、景勝が勝利を収めます。
上杉家の後継者となった景勝に兼続は重用され、取次役として活躍することになりました。取次役というのは、大名の代理として他勢力と交渉する役回り。地域を支配する土豪との交渉、大名間の交渉などを行う重要な役です。
同じく景勝の下で執政を行っていた狩野秀治が病に倒れると、兼続は上杉家の内政・外交・軍事全般を担うようになりました。当時の上杉家の家臣たちは景勝を「殿様」、兼続を「旦那」と呼び、4歳年上の景勝を補佐しながら兼続は上杉家の政務を取り仕切っていきます。
1581年、反乱を仕掛けた越後新発田城主・新発田重家を破り、景勝は越後での上杉の覇権を確かなものにしました。この戦のため、信濃川支流の中ノ口川を開削したのが兼続。兼続の開削は、現在の越後平野の基礎となっています。
1582年の本能寺の変で織田信長が亡くなると、信長に代わって天下統一を進める秀吉が越後の景勝に臣従を求めます。このとき、上杉側の取次役として交渉に当たったのが兼続。秀吉側の取次役を務めたのが石田三成でした。同じ1560年生まれの2人は交渉を進める中で親しくなり、友情を育みます。また景勝が秀吉を支える五大老の1人となったため、兼続は秀吉の知遇も得ました。
秀吉に気に入られ、家康とはやり合う…
秀吉は兼続を高く評価していました。1590年、秀頼は関東の北条を討つために小田原征伐を行いますが、なかなか落城させることができません。そこで、秀吉が意見を求めたのが、景勝とともに征伐に参加していた兼続でした。
秀吉にとってみれば、兼続は臣下である景勝の臣下、いわゆる陪臣です。この陪臣である兼続に、秀吉は米沢30万石の所領を直々に与えました。また、自らの家臣になるべく誘うなど、兼続を買っていたことがさまざまなエピソードからうかがうことができます。
1598年9月に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭します。この頃、景勝と兼続は新たに神指城の築城を始めていました。これを家康に対する謀反だとされたため、兼続は反論の書状を家康方に送ります。これが家康の上杉征伐、そして関ヶ原の戦いのきっかけになったといわれる「直江状」です。
直江状の内容はかなり辛辣で、「きちんと調べもせずに謀反を企てているという嘘を信じるなら、家康様の方こそ表裏がある人間です」などと書かれていました。実は、直江状については後世の改ざんの可能性も指摘されていますが、兼続が送った書状により家康が激怒したことは確かなようです。
家康は上杉討伐を決定し、軍を会津に向けました。その後、三成が上方で挙兵して関ヶ原の戦いとなるのですが、これは知友である兼続と三成の連携によるものといわれています。
しかし、関ヶ原では三成率いる西軍が敗戦。奥州で東軍の最上義光と戦っていた景勝と兼続も撤退することになります。この撤退戦の見事な手際に兼続は家康から称賛を受けます。
関ヶ原の戦いの後、景勝と兼続は上洛して家康に謝罪。家康から罪を許され、米沢に減移封となり上杉氏は存続を許されます。その後、兼続は治水事業や産業の育成に力を注ぎ、米沢藩の発展に尽くしました。そして、1620年に死去。これに際し、幕府は賭典銀50枚を下賜しました。
“天”より“地”より、人の和が大切
なぜ、景勝、秀吉、家康らがこぞって兼続を評価していたのか。そのポイントは、和を大切にして、人をまとめる能力にありました。例えば、家康は「直江兼続は智勇がある男で、野蛮で心がたけだけしい奥州の諸浪人を自由に使いこなすことができる」と評していました。
臣下や民を大切にするのが兼続の信念でした。兼続は「天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず」という孟子の言葉を座右の銘にしていたといいます。天に味方されていても地の利に劣り、地の利は人の和に及ばないという意味です。逆に見れば、この言葉は、人の和がなければ、天の味方、地の利も生かすことができないとなります。
兼続が人の和を大切にしたことは関ヶ原の敗戦後の行動にも見て取れます。戦前30万石を有していた兼続の所領はわずか6万石になってしまいます。しかし、兼続はこのうち5万石を仲間に分け、残りのうちの5千石を身分の低い者に分配し、自らはたった5千石になったといいます。
パートナー、景勝が生涯にわたって信頼しただけでなく、秀吉が自分の下に置くことを望み、家康が評価した兼続。トップには時に非情な厳しさが求められることがあります。だからこそ、パートナーである補佐役には、人の和をつくり、まとめられる人物を欲することがあります。名補佐役、兼続が高く評価された理由は、政治力ではなく、人間力にあったのかもしれません。