NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、11月15日放送の第32回「反撃の二百挺」から駿河太郎さん演じる筒井順慶という武将が登場しています。筒井順慶は、戦国武将の中にあって、それほど高い知名度があるわけではありません。しかし、実は有名な故事成語の元になった行動をとった武将です。それは「洞ヶ峠を決め込む」。どんな順慶の行動からこの言葉は生まれたのでしょうか。
筒井順慶は1549年、大和国(現・奈良県)の生まれです。筒井氏はもともと興福寺一乗院の衆徒でしたが、武士化し、父・順昭の頃には大和最大の武士団となっていました。しかし順慶が生まれた翌年に、順昭が病没。順慶はわずか2歳で家督を継ぎますが、まだ乳飲み子だったため、叔父の筒井順政が筒井の家を守ります。そして1564年、順慶が15歳のときに叔父の順政が死去。順慶は、名実共に筒井氏の当主となりました。
その頃、三好長慶の重臣だった松永久秀が大和に攻め入っており、筒井氏と敵対していました。順慶は以降、松永久秀との長い戦いに入ります。1568年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛し、義昭を15代将軍に就任させました。この際、久秀は信長に茶の名器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を献上して歓心を買い、信長の臣下に入ることに成功します。信長という後ろ盾を得た久秀は、順慶の居城である筒井城に総攻撃を仕掛け、順慶は大和福住城に逃げ込む事態になりました。
勢いづく久秀は、足利義昭方の畠山秋高や和田惟長にまで攻め込むようになります。こうした事態の中、敵の敵は味方とばかりに義昭は久秀と敵対する順慶に接近。九条家の娘を養女として順慶に嫁がせるなど、距離を縮めます。義昭の支援を得た順慶は筒井城の奪還に成功し、明智光秀のあっせんによって織田信長に仕えるようになりました。
義昭が将軍になったのは、信長の後ろ盾があってのことです。しかし、都で実権を握った信長と、信長の存在を疎ましく思い始めた義昭の関係が悪化。義昭は、信長に対抗するための勢力を集め始めました。ここで、順慶は選択を迫られます。順慶は義昭に恩がある一方、信長に仕える身になっています。順慶が選んだのは、信長のほうでした。
1573年、武田信玄が三方ヶ原の戦いで信長・徳川家康軍に勝利して反信長勢力は勢いを増しますが、その直後に信玄が病没すると事態が一変します。義昭は信玄という後ろ盾を失い、信長に都から追放されてしまいます。順慶はその後、信長の家臣として次々と戦に参戦。信長の信用を勝ち取り、1580年には大和一国を任されるようになりました。
運命の選択、恩義の光秀か、勢いの秀吉か…
しかし、その2年後、急転直下の事態が訪れました。本能寺の変です。信長の家臣であった光秀が都の本能寺に滞在していた信長を急襲し、信長は落命。光秀は自らの勢力を確立すべく、傘下に入るよう関係諸将に呼びかけました。
ここで、順慶は再び重大な選択に迫られます。順慶は、光秀のあっせんにより信長の下に参じました。順慶は信長の臣下ですが、直接の上司は畿内方面軍を統括する光秀です。また、諸教養を通じて順慶と光秀は友人関係にもありました。しかし、クーデターを行い、自ら権力の中枢に立とうとしている光秀に付くべきかどうか――。順慶は一族や重臣を招集し、評議を重ねました。
光秀は、山城(現・京都南部)と河内(現・大阪東部)の境にある洞ヶ峠に陣を敷き、順慶の加勢を待ちます。しかし、順慶はなかなか態度を鮮明にしません。このエピソードから生まれたのが、「洞ヶ峠を決め込む」です。以前の俗説では順慶が洞ヶ峠に籠もって態度を保留したことになっていましたが、現在は洞ヶ峠にいたのは光秀だったという説が有力になっています。
結局、中国方面にいた秀吉が「中国大返し」で畿内に戻り、山崎の戦で光秀を討ったのちに、順慶は秀吉の元にはせ参じます。順慶が山崎の戦で自分の味方に付かず、遅参したことを秀吉は叱責しますが、順慶は秀吉の家臣となることができ、大和の所領も安堵されました。
ビジネスはさまざまな場面で判断を求められます。現代のビジネスパーソンが戦国武将から学べることは多岐にわたりますが、判断の重要性もその一つです。戦国武将は判断によって、自分の命、家の存続が左右されます。同じく、ビジネスパーソンも判断によって自分の生活や将来が大きく変わります。
しかし、的確な判断を行うのは一筋縄ではいかないものです。特に最近は、判断にスピードが求められますからより一層大変です。確かに、早く判断することも重要ですが、焦って誤った判断をすると、致命的な局面を招くこともあり得ます。本能寺の変の後、それまでの関係を重視してちゅうちょなく順慶が光秀に付いていたら、光秀と共に順慶は斃(たお)されていたと思われます。
「洞ヶ峠を決め込む」は否定的な意味で使われる言葉ですが、判断がつかないときには即決せず、態度を保留して「洞ヶ峠を決め込む」ほうが良い結果を生むこともあり得ます。順慶のエピソードは、判断を急がず、行動する選択肢もあることを示してくれているのかもしれません。
ちなみに、順慶の父親、順昭も有名な故事成語となるエピソードを残しています。それが「元の木阿弥」です。前述の通り順昭は、幼い順慶を残して亡くなります。順慶が成長するまでの時間稼ぎとして、順昭は自分の「影武者」を用意したのです。影武者となったのが順昭と声がうり二つだった盲目の法師、木阿弥でした。順慶が力を付け、存在する意味がなくなった木阿弥は元の身分に戻ったことから、苦労したにも関わらず、元の状態に戻ってしまうといった意味の故事成語となったのです。歴史の教科書では大きく取り上げられることはない順昭・順慶親子ですが、ユニークなかたちで名前を残しています。