経営者の育てられ方から子育ての極意を学ぶ連載。今回、取り上げるのはGMOインターネットの熊谷正寿社長です。祖母の愛情によってゆるぎない自己肯定感を身に着けた熊谷社長のケースを紹介します。
GMOインターネット会長兼社長・熊谷正寿の場合
熊谷正寿(くまがい・まさとし)
1963年生まれ。國學院高校中退後、父親の事業を手伝う。91年ボイスメディア(現GMOインターネット)を設立。95年にインターネット事業に参入し、現在ではインフラや証券などネット関連事業を幅広く展開する
熊谷正寿は、何かに取りつかれたように懸命に生きている。17歳で高校を中退後、父親が経営する会社で働きながら、将来成し遂げたいことを克明に手帳に記した。
そのロードマップに従って、27歳でGMOインターネットの前身会社を創業すると、ドメイン登録やレンタルサーバーなど事業を幅広く展開。そして手帳に記した通り、36歳で株式上場を果たす。いつしか熊谷は「夢を実現する手帳術」の第一人者として、多くの若者から支持を集めるようになった。
「趣味は仕事で、土日に休むことなんて考えられません。慢性的に時間がなく、暇だと思ったことは一度もありませんよ。人生は寿命までのカウントダウン。非効率的なことや無駄なことに時間を割くのは、非常に良くないと考えています。『時間=命』。僕も記者の方も、この取材に命を割いているんです。後身の企業家が育つために、このように文章で残すのはいいと思うからお受けしたのです」
時間に対する意識は普通ではない。例えば、どんな仕事の指示も、必ず期限を分単位でその場で設定させる。設定できない場合は「期限設定の期限」を決めさせる。そうすることで効率化を図り、徹底的に無駄を防ぐ。
また熊谷は、表計算ソフトを使って、平均寿命から逆算した残日数を毎日確認している。それを見て「もっと時間を有効に使わなくては」と自らを叱咤激励するのだという。
「僕は変人。自分でも頭がおかしいんじゃないかと思うんですよ。苦しくなればなるほど燃えてきますし、絶対に乗り越えてやろうと力が湧いてくる」
熊谷正寿という人間は興味深い。熊谷の言葉をそのまま借りれば、「複雑にミックスしたさまざまな調味料」が人格形成にかかわっている。
実業家・政治家を擁する一族に生まれる…
熊谷の父親は戦後、東京・新宿で開いた汁粉店を皮切りに、映画館、パチンコ店、喫茶店、パブ、レストラン、ディスコ、貸しビル業へと事業を広げた。父親は商才に長け、一つひとつの事業が時代の最先端を走っていた。
例えば、経営していたディスコ「ツインスター」はパラパラというダンスの流行発信地として名を馳せた。また、当時の最新オーディオ設備を備えた巨大喫茶店には、連日大勢のお客が詰めかけた。ちなみにこの喫茶店は、「ピーナツ取引」として知られる、ロッキード事件の賄賂授受の舞台にもなった。
また父方の祖父は、首相原敬の側近として活躍した政治家。さらに父親のおじは伊庭長之助といい、数々の名コマーシャルを制作した日本天然色映画の創業者だった。米国人歌手のサミー・デイビス・Jrを起用したサントリーのウイスキー「ホワイト」のテレビコマーシャルは、カンヌ国際広告祭でグランプリを獲得している。
こうした錚々(そうそう)たる実業家・政治家を擁する一族に、熊谷は1963年に生まれた。
熊谷は幼い頃から、商売の手ほどきを受けた。父親と外食してもたわいもない話はしない。「この店の売り上げはどれくらいか分かるか」と聞かれ、熊谷が客単価と客数から売り上げをシミュレーションするのが、いつものパターンだった。また父方の祖母が礼儀に厳しく、挨拶や話し方など立ち居振る舞いを口やかましくたたき込まれた。これらは事業家としての熊谷の下地にはなったが、後継者のレールが引かれていたわけではない。
実は熊谷には異母兄弟が2人いる。熊谷より数カ月早く生まれた同い年の兄と、1歳半違いの弟がいた。父親は一生涯独身で、3つの家庭を持っていたのだ。
「ずっと長男だと思っていたら、同い年の異母兄がいた。もう、びっくりしますよね。だから父と一緒に暮らした時間は、普通の家族の3分の1。しかも、困ったことに父は子どもに平等に接しないんですよね」
「良く解釈すれば、僕に力があると見込んで厳しく接した。悪く解釈すれば、僕のことを単に嫌いだったという可能性もあります。父はもう亡くなりましたので、そこは確かめようがありません。だから一時は、父を恨んだこともありました。父から愛情は感じましたが、優しくかわいがるという種類の愛情ではなく、ライオンが子を谷に突き落とすような育て方です」
いつも優しかった祖母
そうした複雑な家庭環境が熊谷にどのような影響を与えたのか、正確なところは分からない。父親だけでなく母親も、「自由奔放な性格で、厳しかった」という。そんな熊谷にとって心の安寧の場所だったのが、母方の祖母だった。
祖母はいつも優しかった。熊谷は母の郷里、長野県で暮らす祖母を訪ねるのが待ち遠しく、夏休みや春休み、冬休みになるとすぐに祖母の家に行き、休みの間ずっとそこで生活を共にしたという。そんな祖母は、事あるごとに熊谷にこうささやいた。
「あなたは特別な子なのよ」
特別というのは、政治家や事業家として活躍する父方の血を引くという意味だ。ひざ枕をして、熊谷の頭をなでながら「あなたは特別な子よ」と言い、幼稚園児にもかかわらず一人で長野まで訪ねてきたときには、力強く熊谷を抱きしめながら、「やはりおまえは特別な子だ。なんだってできるんだね」と喜んだ。
母性が海のような包容力とすれば、熊谷が母性を求める対象は、「間違いなくこの祖母だった」という。そして、この祖母の言葉が、今に至るまで熊谷の心の支えになっている。祖母との関係は熊谷が19歳のときに、祖母が亡くなるまで続いた。
「言ってみれば、自己暗示ですよ。父方の事業家の資質が、僕に遺伝で備わっているかどうかなんて誰にも分からない。でも、大好きだった祖母から『特別な子だ』と言われ続けていると、そうなのかなあと潜在意識で思えてくるんです。厳しいだけだと子どもは参っちゃいますからね。僕の場合は、祖母が温かな愛情を注いでくれたから、『自分はできるんだ』という強い自信を開花できたんです」
日経トップリーダー/執筆=北方 雅人・本荘 そのこ
出典:絶対肯定の子育て 世に名を成す人は、親がすごい