阪神タイガースは1964年にセ・リーグ優勝を果たして以降、52年間でわずか3度(1985年、2003年、2005年)しかリーグ優勝していない。低迷することが多かった球団が3度の優勝を果たしたときには、一体どのようなチーム状態だったのだろうか。どのような人材管理がなされていたのだろうか。阪神における過去3度の優勝から、組織が勝つために必要なものが何かを探る。
阪神の長い歴史の中で、最も低迷していた時期は1977年から2002年の26年間である。この間Aクラス(セ・リーグ6チーム中3位以上)に入ったのはたったの5回、Bクラス(4位以下)になった率が8割を超える弱小チームとなっていた。
しかし1985年に、たった一度だけリーグ優勝を果たし、球団初の日本一に輝いている。真弓明信選手、ランディ・バース選手、掛布雅之選手、岡田彰布選手の4人が30本塁以上を打ち、チームの本塁打数は200本を超えた(219本)。点を取られても取り返す逆転劇を幾度となく繰り広げ、21年ぶりの優勝を果たしたのだ。
優勝できた直接的要因の一つは、“強力打線”であるのは明白だ。しかし、ホームランバッターを何人もそろえたからといって、優勝できるものではない。代表的な例は1997年の巨人だ。当時の巨人はもともと松井秀喜選手、広沢克己選手(元ヤクルト4番)というホームランバッターを抱えていたが、この年はさらに清原和博選手(元西武4番)、石井浩郎選手(元近鉄4番)を獲得。しかし、ペナントレースは4位に終わった。
チームが優勝するためには、選手たちがシーズンを通じてチーム一丸となり、活躍し続けなければならない。勝つために必要なこと、それがチーム一丸となる組織マネジメントである。確かに、1985年には素晴らしい選手がそろっていた。しかし、1985年以外の阪神にも、素晴らしい選手は大勢いた。にもかかわらず、優勝できなかった。1985年と、その他の年の違いはどこにあるのだろうか。
1985年の阪神が他の年と異なる点としては、チームとしての「まとまり」が挙げられる。
1月の公開記事「プロ野球に学ぶ中途採用術(第3回)悲劇のエース小林繁から学ぶ“大物”人材の採用法」で、巨人のエースだった小林が阪神に移籍してきたとき、チームメンバーに対して「巨人には伝統があるが阪神には伝統がない」とゲキを飛ばしたことを紹介した。小林選手は、阪神が優勝するためにはチームとしてのまとまりが必要だと指摘したのだ。
小林選手は1983年のシーズン後に引退したが、その意思をある人物に継ごうとしていた。それが、「代打の切り札」「浪速の春団治」の愛称でファンから愛されていた、ベテランの川藤幸三氏だった。『1985年猛虎がひとつになった年』(文藝春秋刊、鷲田康著)に記された、小林選手が川藤氏に掛けた言葉を紹介しよう。
「おっさん(川藤のあだ名)、これだけ選手の揃ったチームなのに優勝できないというのが、僕はどうしても納得できない。どうみても巨人より阪神の選手の方が力は上だよ。投げていて分かるんだ、ただ、このチームを見ていて、どうしても巨人に勝てない決定的な差も感じる(中略)」
「巨人ではON(王貞治・長嶋茂雄)でも、自分たちはチームの一員だという気持ちで野球をやっていた。でも、阪神の選手はチームが負けようが自分がやればいいじゃないかという考えが主流になっている。選手の気持ちをチームの方に向ける、そういうまとめ役がいない。チームには数字で先頭に立って引っ張っていく人間と、目立たないところでまとめ上げていく人間が必要だよ。おっさん。そのためには……おっさんがトップに立たんでどうするの!」
小林選手は川藤氏に、そのまとめ役になるよう進言していたのだ。
巨人にあって阪神にないものとは?
小林選手の指摘はもっともだった上に、当の川藤氏も阪神というチームを次のように分析していた。
「ワシらが入った頃から阪神タイガースはずっとスター選手がメインにおるチームやった。投手側、野手側……必ず両側にスターがいて、スター中心のチームなんです。スターと監督に確執が起こるとフロントはどうするか。全部、スターをとってきた。だからスター選手は『オレはこうしとったらエェんや』と自分のことばかり考えるようになって、オレありきのチームになってしまう。そうなったら巨人とは勝つ意識が根本から違ってくるわけですよ」
川藤氏の言う、「スター中心のチーム」という一例を紹介しよう。1967年から1972年の間、阪神には村山実選手と江夏豊選手という、歴史に名を刻むエースが2人もいた。村山選手が江夏選手に「俺は長嶋をやる、お前は王をやれ」と言ったと伝えられるほど、2人はONに対して闘志をむき出しにしていた。
村山選手は通算1500奪三振、2000奪三振を長嶋選手から狙って奪い取り、江夏選手は1シーズンにおける奪三振日本タイ記録(353個)と新記録(354個)を王選手から狙って奪い取った。どんな選手からだとしても、狙って三振を獲ることは容易ではない。それを生涯に一度しかない記録達成のチャンスに、ONを相手に果たしたのである。
このようにONに負けないほどのエースが2人もいたにもかかわらず、その間に阪神は一度も優勝できなかった。小林選手や川藤氏の言う通り「オレありき」で、全員が同じ方向に向いていないチーム体質になっていたのだ。
組織には川藤のような“裏方”が必要
個性派ぞろいの阪神をまとめるのは難しい。1985年に就任した吉田義男監督は、そのことを身をもって体験していた。吉田監督は一度目の監督時代(1975-1977)に選手たちを管理し、自分の思い通りのチームをつくろうとしたが失敗している。首脳陣からの指揮命令だけでは、個性派ぞろいの阪神の選手をマネジメントしきれなかったのだ。吉田監督はその反省から選手を管理するのではなく、選手の自主性に任せるとともに、川藤氏に選手と首脳陣とのパイプ役を依頼した。
巨人の「チームの一員である」という意識を知る小林選手が行ったチームへの働きかけと、一度失敗を経験している吉田監督のマネジメントにより、阪神は変わることができた。これについて川藤氏はこう述べている。
「選手の顔をチームに向かせる、そういうまとめ役が必要やということや。それがワシやったということなんです」
バースは「チームには掛布と岡田と真弓のグループがあったけど、川藤さんがその3つをつないでいた。あるときはみんなを誘って『飲みに行こうぜ!』とやったり、みんながあまりバラバラにならないようにまとめていたんだ。本当にナイスガイだよ」と、川藤氏を評価した。掛布選手も岡田選手もいわゆる「派閥による確執」のようなものは一切なかったと否定し、川藤氏がまとめ役に徹したことによりチームがうまくまとまっていたと話している。
チームが優勝するためには、数字を残す選手、つまり力のある選手は不可欠である。しかし、それだけでは優勝できない。チームをまとめる力が必要なのだ。本来であれば監督や選手会長がその役目を担うが、個性派ぞろいのチームをまとめるには適していなかった。その代わりに裏方のまとめ役となり、ムードメーカー、首脳陣となるパイプ役が必要だったのだ。
企業には数字を上げることができる社員、つまりデキる社員が必要である。しかし、デキる社員の中には、クセのある人材も多い。そうしたデキる社員を上から一方的に管理しようとすれば、不満は募り、組織として力につながらなくなる可能性がある。逆に、放任するとまとまらず、力が分散してしまう。
勝てる組織をつくるためには、数字をたたきだすハイパフォーマーに加えて、彼らを同じ方に向かわせる力が必要になる。そのためには、川藤氏のようなチームをまとめる裏方、ムードメーカー、経営陣とのパイプ役を見つけることができるかがカギとなるのだ。
参考文献:1985年猛虎がひとつになった年(文藝春秋刊、鷲田康著)