阪神タイガースは、1985年に21年ぶりのセ・リーグで優勝し、さらに初の日本一の座をつかむ。しかし、その後、再び低迷。長いトンネルをくぐり抜けた後、ようやく2003年に18年ぶりのリーグ優勝を果たした。
チームを再浮上させるために一体、どのようなマネジメントが執られたのだろうか? 2003年の優勝から、かつて興隆した組織が、衰退した後、再び、栄光を手にするために必要なものが何かを探る。
組織再生のはじめの第一歩は「トップ交代」
第1回で1985年の優勝を成し遂げたプロセスを紹介した。巨人のエースである小林繁選手が加入したことが起爆剤となり、実力ある個性派ぞろいの選手たちがチームとして勝つことを目標にまとまった。これと選手の自主性を生かすマネジメントとが相まって、阪神は優勝を果たす。
しかし1986年、それまで生え抜きの4番として連続試合出場を続けていた掛布雅之選手が故障しがちになると、チームの勢いやまとまりは影を潜めはじめる。そして再び、長い低迷期に入ってしまった。1986年から2002年までの17年間のチーム成績は、最下位10回、Aクラス入りしたのはわずかに2回。そこには、伝統ある強豪チームの面影すらなくなっていた。
阪神タイガースを18年ぶりの優勝へと導くこととなる第一歩は、球団オーナーの優勝するための英断「OB以外の監督招聘」であった。
「考える」土壌をつくった野村監督
これまで阪神の監督には、1961年から1968年の藤本定義監督や、1979年ドン・ブレイザー監督、1980年にそのブレイザー監督からシーズン途中で引き継いだ中西太監督といった例外を除けば、基本的に阪神のOBが就任してきた。
その阪神が18年ぶりに、OB以外の監督として、かつて弱小チームであったヤクルトスワローズをわずか3年で優勝へと導き、在任期間中の9年間にリーグ優勝4回、日本一3回に成し遂げた名将・野村克也監督を招き入れたのだ。
1999年から阪神の指揮を執った野村監督は、ヤクルト時代と同様、選手に「考える野球」「ID野球」を徹底的に教え込んだ。これは後に選手の力へと変わっていくのだが、当時の阪神の選手たちにとっては今まで考えもしなかったことの連続で、理解の難しいものだった。
野村監督は、ヤクルトの選手にはミーティングの都度、ホワイトボードに書きながら説明し、選手たちがそれぞれ自分のノートにメモしていた。しかし阪神では、少しでも早く選手に理解させるために、「野村の考え」としてコピーしたものを選手に配布してミーティングを行った。しかし、このやり方では思うような効果は得られなかった。
ヤクルト時代には3年目に優勝を果たしたが、阪神では3年目となる2001年シーズンも最下位に甘んじていた。その上、野村監督夫人の脱税問題がマスコミに取り上げられてしまい、監督を交代せざるを得なくなってしまう。退団が決まると野村監督は、後任に自分とは異なるタイプの人物を推薦した。それが、この年まで中日ドラゴンズを率いていた星野仙一監督であった。
日光を照らし、選手を発奮させた星野監督…
野村監督いわく、自身は理詰めで野球の知識を教え込むタイプだが、星野監督は存在感だけで緊張感や恐怖感を与えるタイプである。実際に指揮を執った経験から、野村監督は、当時の阪神の選手たちには理詰めで考えさせるだけではなく、やる気を駆り立て、その気にさせることが必要だと感じていたのだろう。「阪神タイガースには、星野監督のようなタイプの方が合う」と話した。
星野監督も、野村監督が阪神に残したものを評価し、自分はそこに加算していけばいいと考えていた。この継投が功を奏すこととなる。星野監督はまず、選手を動かすために「とにかく勝ちたいんだ」と言い続けた。そしてこの考えを浸透させるために、チームのスローガンとして「ネバーネバーネバーサレンダー(NEVER NEVER NEVER SURRENDER:決してあきらめない)」を掲げ、選手に“勝ちたい”という気持ちを植え付けた。
その結果、就任2年目となる2003年に、見事優勝を果たす。当時の主力だった桧山進次郎選手や赤星憲広選手は、「野村さんが監督だったときは、言っていることがよく理解できなかったんですが、今になってやっと分かってきました」「野村さんのおかげです」といったコメントを残している。
土壌のないところでは、水をやっても稲は育たない。肥えた土壌に、水をやって初めて稲は成長する。「考える野球」という養分をまき続けたのが野村監督であり、選手のやる気を促すようにその土を耕し、優勝に向かって伸びるように日光を照らし、水を与えたのが星野監督だったといえるのかもしれない。
古参の活用とリストラの敢行
星野監督は、土を耕すために強硬な手段にも出た。野村監督は基本的に今いる選手を蘇らせることに注力していたが、星野監督は所属選手をリストラし、チームの血を入れ替えることに力を入れた。そのために、オーナーやOBとも積極的にコミュニケーションを取った。オーナーの了解がなければ、つまりお金がなければ有力選手の補強はできない。さらには伝統的にOBが監督を続けている球団である。OBとの関係を良くしなければ、裸の王様になってしまいかねない。
まず、オーナーに対しては、分かりやすい説明で経営判断を促した。阪神が優勝するためには○○という選手を獲得する必要があり、そのために○○億円が必要、といった具合だ。抽象的な話ではなく、誰を獲得するためにはいくら必要で、そのために誰と誰を辞めさせることでいくら捻出をして、残りいくら必要です、といった明確な情報提供を複数案提示し、判断を引き出すプレゼンを行ったといわれている。
またコーチには、同期で親友の“元ミスタータイガース”こと田淵幸一氏を招聘。気心の知れた仲で、かつ阪神OBである田淵氏とともに指揮を執ることは、これまで中日一筋で阪神と縁のない星野監督には重要だった。
しかし、田淵氏の招聘には思わぬ障害があった。当時、阪神のチーム編成部長を務めていた黒田正宏氏との関係である。
2人はもともと、法政大学と西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)時代の同僚で、1990年には福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)で、田淵氏が監督、黒田氏がヘッドコーチを務めるほどの関係だった。だが、そのダイエー時代に関係が悪化し、黒田氏がチームを退団するという過去があった。
星野監督としては、阪神OBで親友の田淵氏をコーチとしてぜひとも引き入れたいところだが、それでは黒田氏は良い気はしない。一方で黒田氏は、編成部長としてリストラを断行し、その泥水をかぶる推進役としての役割を背負っている。田淵氏も黒田氏も、チーム作りに欠かせない人物なのだ。
そこで星野監督は2人を呼び、「阪神タイガースを強くするために、これまでのことは水に流してほしい」と、双方の協力を取り付けてしまったのだ。そして、黒田氏とともにリストラを断行した星野監督は、なんと3分の1以上の選手を入れ替えた。その結果、チームは生まれ変わり、活気が戻っていくのである。
周囲に好影響を与えた金本の加入
この選手入れ替えの波の中で、2003年に加入した選手の1人が、広島カープからやってきた金本知憲選手(現・阪神タイガース監督)である。FAで阪神に加入した金本選手は、期待以上に、阪神タイガースの中心選手として活躍を続けた。
その効果は、本人の成績だけにとどまらない。金本選手の加入が決まると、まず赤星選手が刺激を受けた。“金本選手は自分と同じ外野手、打てる選手にならなければ自分がレギュラーを外されてしまう”と危機感を持って練習に励むようになった。一方の金本選手も、2番打者として出塁した赤星選手に対し「最初の何球かはお前にやるから」と言って、赤星選手の盗塁をサポートした(金本選手は主に3番打者を務めていた)。
また金本選手は、無類のトレーニング量を誇る練習の虫だった。その影響を受けて、ほかの選手も進んで練習するように変わっていった。金本選手が加入することによって、目に見えない部分でも、チームが見違えるように変わっていった。
2003年の優勝は、組織再生セオリー断行の必然の結果
組織に染み付いたあしき習慣はなかなか変わらない。しかし、それを変えなければ本当の組織の再生など成し得ない。そのためにはまず、経営者が考え方を変えなければならない。そして現場のトップを代えて、組織の考え方を変える。時にはメンバーも思い切って代える。その際、私情ははさまない。目的を共有し、その目的を達成するために関係者の納得を得ながら、ことを進めていく。
やがて、メンバー一人ひとりに、本当の意味での危機感が芽生え、自主的に努力し、また自主的に協力し合うようになる。特にまとまろうとする必要はない。各ポジションにいる人間が、それぞれ責任のある仕事を全うすれば、組織の力は自然とアップするのだ。
これが、2003年の阪神タイガースの覚醒である。18年ぶりの優勝という最高の美酒を手に入れた裏には、組織再生のために断行した、確かなマネジメントがあったのだ。
参考文献:野村・星野・岡田 復活の方程式 阪神タイガースを変えた男たち(イースト・プレス刊、永谷修著)、阪神タイガース変革論(ベストセラーズ刊、大下英治著)