就任1年目の2004年は4位と、前年優勝チームにしては芳しくない結果に終わった。これまでの阪神であれば、成績低迷の悪い流れを断ち切れず長いトンネルに突入していた可能性も大いにあった。だが、翌2005年には再びリーグ優勝を勝ち取った。なぜ岡田監督は阪神の慣例を覆し、よみがえらせることができたのだろうか。
現在では野球評論家として活躍する岡田監督を一言で表現すれば「3つのポジションで阪神の栄光を知る人物」だ。1985年の優勝時には選手として5番打者を務め、2003年はコーチ、そして2005年には監督として、阪神タイガース過去3度の優勝の全てを現場で経験してきた。
岡田監督は1957年、大阪・玉造の町工場の息子として生まれ、父親が阪神の選手と親交を持つなど、子供の頃から阪神に親しみながら育った。名門北陽高校に進学すると、1年で野球部のレギュラーとなり、夏の甲子園に出場。早大に進学後も1年でレギュラーとなり、3年秋には三冠王、日米大学野球では4番を任されるなど、エリート街道を歩んできた。
常に、チームに入ってすぐにレギュラーの座を当たり前のように勝ち取ってきた岡田監督は、当然のように「自分はプロでもやれる」と考えていた。しかし、阪神に入団すると、それまでの物差しでは計れない選手ばかりで驚いたという。
それもそのはず、当時の阪神タイガースの顔ぶれといえば、小林繁、江本孟紀、山本和行。野手は掛布雅之、真弓明信、藤田平、中村勝広、ラインバック……。そうそうたるメンバーがそろっていたのである。
先輩の実力に驚くと同時に、「なんで優勝できんのか」という疑問も湧き上がってきたという。しかし、その理由もすぐに分かったそうだ。「みんな自分勝手で、バラバラ」で、「自分のことだけ考えてプレー」しているのだから、“そらそうや”と納得した。
監督を務めるに当たり、最もこだわったのが「4番打者」だった。岡田監督は4番こそが、阪神というチームにまとまりを与える鍵だと分析したのである。
岡田監督は「阪神の4番」の価値を、身をもって知る人物である。勝てば英雄で褒めたたえられるが、負ければ全責任があるかのようにたたかれる。
その4番を、岡田監督は掛布選手から引き継いだ。1988年からは3年連続で20本塁打以上を記録するなど活躍したが、やがて打撃不振に陥り、ついには長く守り続けてきたクリーンアップから外され、7番打者に降ろされてしまう。低迷するチームをなんとかしなければならないと、人一倍感じていながら、4番に座って数字を残せない自分の限界も感じていた。
こうした経験もあり、岡田監督の中には、強いチームになるための「4番像」が確立していた。一番、数字を残している選手が4番に座って、常にゲームに出場する。それを見た他の選手が触発されて、チームは好循環を繰り返しまとまっていく…というものだ。
岡田監督が「4番」に選んだのは、前年に広島カープから移籍してきた金本知憲選手(現監督)だった。岡田監督は「チームで一番数字を残している人間を真ん中に持ってこないほうがおかしい」という考えの持ち主である。就任当時、金本選手がチームで最も数字を残していた。さらに金本選手は、後に904試合連続フルイニング出場の世界新記録を記録するなど、“絶対に休まない”選手でもあった。これほど4番にふさわしい選手はほかにいない。
岡田監督は、金本選手を4番に座らせることを決めた。本人には「誰にも文句を言わせぬ数字を残せば、必ず認めてくれる。(金本選手は)もう十分やっているから、4番を遠慮なくやってくれ」と伝えた。その言葉もあってか、2004年、2005年の金本選手は、本塁打や安打、打点などで2003年以上の成績を残し、名実ともにチームの大黒柱となった。
岡田監督は金本選手に対し、もう一つリクエストをしている。それは調整や自己管理などを、全て“お任せ”するというものだった。金本選手だけでなく、下柳剛投手、矢野燿大捕手という、いわゆる37歳トリオ(2005年当時)に対しても、同様に声をかけていた。
阪神タイガースの問題点の一つに、実力あるベテラン選手が自分勝手に行動し、チームとしてまとまりを欠いてしまうことが挙げられる。岡田監督はこの課題に対し、細かく管理をして反発を招くより、ベテランの力を信頼し、全てを任せる道を選んだ。それが見事に成功した。
「任されると、こっちの自己管理もキチンとしなければと思って、いい結果が出た」。2005年に最多勝に輝いた下柳投手のコメントからも、その効果のほどをうかがい知れる。
ラッキーセブンの逆をついた「JFK」の誕生
投手陣に対しては、特にリリーフ陣の整備に注力した。その代表が「JFK」の確立だ。阪神ファンなら、このキーワードを知らない人はいないだろう。JFKとは、ジェフ・ウィリアムス選手 (J)、藤川球児選手(F)、久保田智之選手(K)という3人のリリーフ投手の頭文字だ。この3人がリリーフとして登板する試合展開になれば勝率が非常に高いことから、ファンやスポーツ記者たちはこぞって使い出した。
それまでは「セットアッパー」と「ストッパー」の2人のリリーフ投手で勝ちパターンをつくる方法が一般的だった。それを3人体制とした方法は、特筆に値する。岡田監督の手腕である。
岡田監督がJFKを思いついた発想は、野球界でよくいわれる「ラッキーセブン」の概念からだった。「負けていて、7回に1点も入らんかったら、まあ50%はもうあかんなって思う。1点でも入ったら、逆に70%くらい、まだ行けるぞって気持ちになる。試合の流れが復活してくる」
だから、攻める側が7回に点を取ると勝てる機運が高まる。「ラッキーセブン」といわれるゆえんだ。岡田監督は分析する。「ということは、ラッキーセブンにならんかったら勝てない、相手が負けるということやんか。守備側からいえば、相手にラッキーセブンを作らさんかったらええんや」
ラッキーセブンを作らせないことで、相手に終盤の3回をあきらめさせる。そのために、最も抑えられるピッチャーを7回に使う。この発想から、7回に藤川球児選手を登板させるJFKが誕生した。岡田氏の狙い通り、相手球団からは「7回までにリードをとらなければ阪神には勝てない」とまで言われるようになった。
“自分がやりたい野球”を持たなくても勝てた理由
このように野手、投手陣にテコ入れを行った岡田監督だが、自身の野球観について「“自分がやりたい野球”は持っていない」と、アッサリとコメントしている。
名監督というものは、たいてい自分なりの野球観を持っているものである。例えば、球界を代表する名監督である野村克也氏は「長所を伸ばすより、短所を直したほうが早い」という指導方針を貫く人物である。これに対して岡田監督は「野球観が違う」と明言している。野村氏は1999年より阪神の監督を3年間務め、岡田監督も同時期に阪神の二軍監督を務めており、浅からぬ関係のはずである。しかしそんな野村氏の考えを、岡田監督は“一つの案として引き出しにしまっておく”と、一定の距離を置いたという。
2003年の優勝監督であり、自身もコーチとして苦楽を共にした星野氏のやり方に対しても、あくまで「引き出しの一つ」であると強調する。「星野監督は、チームに対して勝つという意識を植え付けた人やね。それまで負け犬みたいな感じやったチームに、メンバーも入れ替えて“勝ちたいんや”という言葉で雰囲気を変えたのは確かや。勝つ喜びというものを、技術よりも気持ちで教えた。それも引き出しの一つやと思うよ」
何かに固執するのではなく、現役時代、二軍監督時代、一軍コーチ時代の中で得たさまざま経験を引き出しに入れ、戦力に合わせ「勝つためにどうすればいいのか?」だけを考え、計画し、実行する。
一見シンプルに見えるが、現状の問題点や起きてしまった失敗を正確に把握し、解決するための正しい策を実行、良い効果を生み出すのは決して容易ではない。多くの組織では、問題点や失敗が放置されたり、見当外れな対策をしてしまったりすることも少なくない。
しかし岡田監督は、それを阪神という組織の中で見事に成し遂げた。彼自身が1985年と2003年の栄光だけでなく、その間の長い挫折の時代を誰よりも知っている人物だったことが大きく影響しているだろう。誰よりも阪神タイガースという組織の良い面と悪い面を知る人物だからこそ、阪神タイガースという組織に対処できたのだ。
岡田監督は2005年の優勝後も指揮を執り続けた。一度優勝してもその後、ズルズルと低迷してしまうのが阪神の悪い癖だが、2006年2位、2007年3位、2008年2位と、退任までAクラスを維持し続けた。岡田監督の退任後も、阪神が最下位に落ちたシーズンは現時点でなく、Aクラスに名を連ねる。
2016年シーズン、阪神タイガースの監督を務めるのは、岡田監督の熱い思いに応え、「阪神の4番」を務め上げた金本氏。コーチや監督などの経験のない新人監督ではあるが、だからこそ現役時代に体感した、岡田監督の独特の野球観が役に立つかもしれない。
参考文献:オリの中の虎 愛するタイガースへ最後に吼える(ベースボール・マガジン社新書、岡田彰布著)、野村・星野・岡田 復活の方程式 阪神タイガースを変えた男たち(イースト・プレス刊、永谷修著)、頑固力 ブレないリーダー哲学 (角川SSC新書、岡田彰布著)