この連載ではいろいろな経営者を取り上げてきましたが、貞治郎は少し変わった経歴を持っています。大きな業績を上げた経営者は、自分の選んだ道を突き詰めていくケースが多いように思われますが、貞治郎はなんと30回以上も職を変えたのです。
貞治郎は、1881年、兵庫県姫路市郊外の農家で生まれました。高等小学校を卒業すると、「商売を覚えて、偉いもんになったる」と神戸の商家へ奉公に出ます。しかし、商売を覚えるために奉公したはずが、子守ばかりをさせられる日々。貞治郎少年は、嫌気がさして飛び出してしまいました。ここから、長い長い転職歴が始まります。
次に働いたのは洋紙店。しかし、貞治郎少年はこらえ性がありません。ここも「店に活気がないので、張り合いが抜ける。第一、ボール板紙の出し入れは肩が痛くてとてもつらい」とすぐに辞めてしまいました。ただ、ここで洋紙を扱った経験は後に段ボール作りで役立つことになります。
その後も、クビになったり、飛び出したりで、回漕店(船問屋)、活版屋、中華料理店と次々に職を変えていきます。とにかく、勤め始めてから3日と続かないようなことばかり。銭湯、酒場、パン屋、散髪屋、砂糖屋、洋服屋、材木屋、板問屋、石炭屋……と、転職先のリストはまだまだ続きます。
もともと放浪癖がある貞治郎。場所も神戸から横浜、大阪、京都と転々とし、海を渡って韓国へ。さらには一獲千金を夢見て、金鉱を探しに満州(現・中国東北部)にまで足を伸ばします。しかし、危険を賭して満州に乗り込んでも金鉱は見つかりません、有り金をはたいて香港に渡りますが、香港でも散々な目に遭ってとうとう行き詰まります。
もう日本に帰るしか手はない。観念した貞治郎は宿の隣客に金を借り、日本行きの船に乗り込みました。「ああ金が欲しい。それも真面目に働いてもうけた金が欲しい。真面目に働こう。これまでのような放浪生活とはきっぱり縁を切って地道に暮らそう」。船上で貞治郎は行く末を定めます。
1909年、貞治郎は帰国すると東京の上野公園に向かいました。そして、桜の木の下で「人生はまだある。裸一貫からやり直そう。独立自営をめざして進もう」と決意を新たにします。通常、会社の創立記念日は法務局に登記の申請をした日になりますが、レンゴーの創立記念日は貞治郎が上野で決意を固めたこの4月12日になっています。
貞治郎は、上野御徒町で紙箱道具や大工道具を扱う中屋という店で働き始めました。この店の片隅にあったのが、小さな綿繰りのような機械。この機械と、以前洋紙店で働いたときの経験が貞治郎の頭の中でつながります。
当時日本で作られていた包装紙は、ブリキに段を付けるロールにボール紙を通して作られたもので、「電球包み紙」といわれていました。しかしこれは1枚の紙をジグザグに縮ませただけで、ほとんど弾力性がなく、押さえるとすぐに潰れてしまいます。しかし、「なまこ紙」と呼ばれていたドイツ製品は、半円形の波が付いた紙をもう1枚の紙にのり付けしてあり、弾力に富んでいました。
「なまこ紙」のように弾力性のある紙を日本でも作ろう。こう思いついた貞治郎は、出資者を見つけて機械を自作し、平屋の1室でボール紙にしわを寄せる作業に取り組みます。機械といっても波型を刻んだロール2本を左右の支柱に渡しただけのもので、ハンドルを回しながらボール紙をロールにかませるとしわが寄ったボール紙が出てくる仕組みです。
意気込んで作業を始めた貞治郎ですが、なかなか思うように作ることができません。左右のロールにかかる力が微妙に違うため、しわが左右不ぞろいになり、出てくる紙が扇形になってしまいます。台座にバネを置いたり、分銅をつるしたりして工夫します。また、段を付けても風に当たると伸びてしまいます。
試行錯誤を重ねて2カ月。見事に段がそろい、伸びることのない製品がようやく出来上がりました。「なまこ紙」に代わる名前は、語呂の良さから「段ボール」としました。機械と製法が実用新案特許として認可されたため、製品名も特許段ボールとして市場に出すことにしました。
当初注文はほとんどありませんでしたが、貞治郎が注文取りに奔走した結果、徐々に増えていきました。やがて手回し式の機械では生産が間に合わなくなり、ドイツ製のモーター付き機械を購入しました。品質への評価が高まり、東京電気(現・東芝)のマツダランプ、ノリタケの輸出用陶磁器にも使われるようになります。また香水用の箱の注文が入り、初めて段ボール箱を手作りで製作。これがパッキング・ケースの日本で最初のものとなりました。
段ボール事業は大成功、波乱の人生がドラマ化される
段ボール事業は順調に進み、東京の本社・工場のほか大阪に子会社を2社置き、名古屋と川崎にも工場を設けるほどになりました。昭和に入ると缶詰、ビールなどの輸出用外装箱などを開発し、段ボール箱は梱包・輸送に欠かせないものとして認められるようになります。
第二次世界大戦では7つの工場が空襲によって焼失しましたが、戦後は戦災を免れた工場で製造を再開。高度経済成長とともに段ボールの需要も急上昇し、毎年1カ所以上のペースで新工場を開設するほどでした。
貞治郎の波乱万丈の人生は人々の耳目を集めるところとなり、1959年には自伝を基にした連続テレビドラマ「流転」が高視聴率を記録。翌年には映画化されるほど人気を呼びました。そして、段ボールの需要と自らの人生への注目が高まる中、1963年に貞治郎は82歳の生涯を閉じました。
貞治郎は段ボールで大きな成功を収めましたが、前半生は転職の繰り返しでした。キャリアアップを重ねる次につながる転職なら評価の対象になるかもしれませんが、貞治郎の場合、嫌気が差したりクビになったりの連続でした。「転石苔むさず」の言葉通り、そのままだったら大成することはなかったでしょう。
しかし、貞治郎はそこから大きくかじを切ります。度重なる転職と放浪の末、このままではダメだと思い直し、上野公園の桜の下で「人生はまだある。裸一貫からやり直そう。独立自営をめざして進もう」と覚悟を決め、実践したのです。貞治郎の足跡は、「どんな仕事をやっても長続きしない自分はダメな人間だ」などと諦めずに、心機一転すれば人生はやり直せることを教えてくれます。
貞治郎のようにやり直す際に大切なのは「覚悟」ではないでしょうか。人生でのミッションを自覚するなど、成功した経営者、ビジネスパーソンは必ずといっていいほど人生のどこかで「覚悟」を定めています。成功した経営者に大病を経験した人が少なからずいるのも、死に直面にして生き方に覚悟が決まるからだと思われます。
もちろん、これはビジネスの世界に限ったことではありません。どの世界でも成功を収めた人は覚悟を持っており、その覚悟がたとえ逆境にあっても前に進んでいく力を生み出しています。社会に出るときに覚悟を決めることができればそれが一番でしょう。しかし、そうではなく寄り道をしても、どこかで覚悟を決めれば、それが人生を変え、大きな成果を上げることができる。貞治郎の人生はそのことを教えてくれているように思います。