2008年の北京五輪でシンクロナイズドスイミング日本代表となり、引退後もスポーツの楽しさを広めているのが京都出身の青木愛さんだ。8歳の時から始めたシンクロの魅力、生まれ育った京都の思い出、ビジネスパーソンに向けた仕事のヒントなどを聞いた。
チームが1つになるために練習、練習、練習
―シンクロ競技を見るとその美しさに引き込まれます。どこに注目すると、よりシンクロ競技を楽しんで見られるでしょうか。
シンクロは曲に合わせてさまざまな動きを行い、技の完成度・同調性・技術的表現力などを競い合う競技です。その魅力は華やかさとチーム8人の同調性にあります。演技構成や、曲に振り付けが合っていて、隙なく、どれだけ動き続けることができるか。特に、8人が密集した状態で、息を合わせてどれだけ演技できるかが見どころです。
―チームで息を合わせるために最も重要なポイントを教えてください。
時間のある限り、ひたすら練習することです。1つのパートができたら次のパートを練習する。できなかったら、前のパートから練習する。通しで演技したときにどのパートもできなければ意味がないので、納得できるまでひたすら練習します。今日できても、明日できなかったり、8人のうち1人でもできなかったりしたら、練習の意味がありません。とにかく反復練習します。
―メンバー8人は性格も違うし、まとまるためには苦労も多いのではないですか。
全員が「メダルを取る」という1つの目標を持っていれば、自然にまとまります。演技にバラツキが出たときは、誰かの気持ちがぶれているときなので、選手だけでミーティングをして、目標をはっきりさせます。それに、1人ひとりが7人を背負って泳いでいるので、たとえ自分の調子が悪くても、他のメンバーには見せないように心がけていました。
―毎日、どのくらい練習していたのでしょうか。
陸上でのトレーニングも含めると、週6日、朝8時過ぎから夜11時ないし11時半ごろまで練習していました。週1日はオフですが、その日も水に入り、完全なオフの日はつくりません。水に入らない日をつくると感覚が変わってしまいます。水に入らないと、「できなくなっていたらどうしよう」と次の日の練習が怖くなってしまうので、ともかく水に入ります。
――それだけの練習量を無駄にせず、大舞台のプレッシャーの中で力を出し切るために、心がけていた点を教えてください。
大きな大会ほどプレッシャーがかかりますし、不安を抱えたまま舞台に立ってしまうと、一層緊張します。そうならないためには、とにかく練習することです。自信を持って大舞台に臨むためには、練習しかありません。
もちろん力を出すためには時にリラックスも必要です。そんなとき、私はよくKANさんの「愛は勝つ」を聴いていましたね。私の名前の「愛」に引っかけて。
―まさにシンクロにすべてをささげる生活ですね。もう一度その頃に戻りたいと思いますか。
戻りたくはないですね(笑)
大会シーズンの夏の記憶「京都五山送り火」…
―生まれ育った京都でシンクロを始められたきっかけを聞かせてください。
シンクロを選んだのは偶然です。1歳になる前から家の近くのスイミングスクールに通っていました。そこがたまたま京都で唯一、シンクロのコースがあるスクールで、幼稚園の頃、シンクロコースのお姉さんによく遊んでもらっていました。「競泳」「シンクロ」「水球」と3つのコースに分かれる小学2年生の時、そのお姉さんに憧れ、「シンクロをやりたい」と両親に言って始めました。ゼロからのスタートで、毎日できることが増えていったので、楽しかったですね。
―中学生の頃に、今の日本代表ヘッドコーチを務める井村雅代氏と出会っていますね。
中学2年生になって、井村雅代先生の井村シンクロクラブに移籍しました。この移籍もきっかけとなり、シンクロを始めた頃から漠然と抱いていた「オリンピックに出たい」という思いが本当の目標になっていきました。
―井村コーチの指導にはどのような特徴があるのですか。
とても我慢強い先生で、選手ができるようになるまで待ってくださいます。また、指摘が的確なので、選手は言い訳できず、とにかくやるしかありません。そうやって選手は成長していきます。
―厳しい練習を乗り越えられた理由はどこにあるのでしょうか。
母がとても厳しくて、「自分で決めたことは最後までやりなさい」と言われたのが一番大きいです。高校生の時に1度シンクロを離れたのですが、友だちと遊んでいても、全然楽しくありませんでした。それで自分にとってシンクロがどれだけ大きいものなのかに気付き、「シンクロがなければ自分ではない」と思うようになりました。しんどくて嫌になるときもありましたが、自分自身が一番輝けるシンクロは、絶対に最後までやり抜こうと思いました。今でも私の好きな言葉は「初志貫徹」です。
―京都について印象に残っている思い出はありますか。
中学2年生からは毎日、大阪の井村シンクロクラブに通って練習していたので、実は京都の思い出というのはほとんどありません。学校から帰ったら、すぐに電車に乗って大阪に向かい、4時間ぐらい練習して帰ってくる繰り返しです。そんな生活でしたが、記憶に残っているのは毎年8月16日の「京都五山送り火」です。シンクロは夏がシーズンなので、中学生の頃、高校生の頃、その時々に「10日後には全国大会が終わっているな」と思いながら、送り火を見ていたことを覚えています。
―それだけ練習が大変だったらお母さんのサポートも大きかったのではないですか。
母は栄養面や食べやすさをとても意識して、毎日食事を作ってくれました。母は料理が上手だったので、何を食べてもおいしかったです。カロリーもしっかり取らないといけないのですが、こってりしたものではなくバランスよく食べないといけません。そこで、鳥のささみを梅肉としそで巻いて焼くなど、さっぱりして食べやすいものを作ってくれました。ご飯が型抜きしてあったりと、合宿に行くときのお弁当も本当に凝っていましたね。また、大きな大会前日の夕食や当日のお弁当には、必ずカツが入っていました。料理が好きだったという理由もありますが、そんなに手をかけてくれたのも、母は私のことをいつも応援してくれていたからだと思います。
小さな目標を1つずつ乗り越えれば大きな目標にたどり着く
―結果が出なくて悩んでいるビジネスパーソンがいたら、どんな言葉をかけますか。
私は「人生はゲームだ」と思っています。大きな目標があったら、目の前に小さな目標を立てて、それを乗り越えていく。1つずつクリアしていけば、自然に大きな目標にたどり着けます。大きな目標が立てられないと悩んでいるのであれば、それを考え込む前に簡単な目標を立てて、まずはそれを乗り越えてみることが大切だと思います。
それから最近の私のモットーは「なんとかなる」です。「あの頃よりしんどいことはないやろ」「あんなに怒られることもないやろ」と今は思えるからです。また明日は来るわけですから、なんとかなりますよ(笑)
―最後に2020年に向けた期待を聞かせてください。
どんな競技でも、テレビで見るのと生で見るのとは違います。ぜひ競技会場に行って見てほしいですね。まだまだマイナーなスポーツに注目する、よい機会にもなると思います。
青木愛 氏
1985年京都府生まれ。8歳からシンクロナイズドスイミングを始める。ジュニア五輪で優勝するなど頭角を現し、中学2年生から井村雅代氏に師事。北京五輪代表選考会で代表の座を獲得し、北京五輪の日本代表に。引退後は、メディア出演を通じてシンクロに限らず、幅広いスポーツに携わっている。