2004年、大阪近鉄バファローズはオリックス・ブルーウェーブに吸収合併される形で歴史に幕を下ろした。当時、12あったプロ球団の中で「日本一になっていないただ1つの球団」だった。
バファローズの前身が設立されたのは1949年。近鉄パールスというチーム名で1950年シーズンから参戦した。しかし戦績は下位に沈むばかりで、1961年にはシーズン最多敗戦記録となる103敗を喫するなど、長らくプロ野球界ではお荷物球団といわれていた。
そんな弱小球団であったバファローズを、リーグ優勝に導いた3人の監督がいる。1979年、1980年の西本幸雄(にしもとゆきお)氏、1989年の仰木彬(おおぎあきら)氏と、2001年の梨田昌孝(なしだまさたか)氏である。
バファローズとして最後のリーグ優勝を果たした梨田氏は、前年最下位という状況で指揮を託された。そして、就任1年目の2000年も最下位に甘んじたものの、2年目には優勝を果たした。梨田氏は、チームの戦力を正しく分析し、戦力にあった戦術を2年目に採用したことで、最下位から一転、優勝を勝ち取ったのだった。
選手時代は、おだてて、励ますキャラクター
野球において捕手というポジションは、その役割から、守備、走塁、投球、打撃と野球のすべてにその視野を広げ、情報を収集、分析、行動しなければならない。その視野の広さは、監督としての仕事に通じるものがある。実際、野村克也氏、上田利治氏、森祇晶氏など、捕手出身監督には名将が多い。
梨田氏もまた、現役時代、近鉄で捕手として活躍した。守備面だけでなく、打者としても、2桁本塁打を放つそれなりの長打力を持ちながら、3割近い打率も残し、捕手としては上々の成績を上げ、オールスターにも6度選ばれた。当時のパリーグを代表する捕手の1人といっても差し支えはない。
ただ、最も出場試合数が多かったシーズンでも、118試合にとどまった。当時の近鉄にはもう1人の主力捕手として有田修三氏がいたからだ。成績も実力も高いレベルで拮抗していた2人は「ありなしコンビ」と呼ばれ、「2人とも他球団に行けばフル出場間違いなし」「近鉄には正捕手が2人いる」と恐れられた。
正捕手を1人に絞れなかった理由は実力が拮抗していたためだけではない。通算317勝を挙げることになる当時の大エース、鈴木啓示氏との関係も大きく影響した。鈴木投手は梨田氏ではなく、有田氏を専属捕手に指名していたのだ。
「なぜ、自分ではダメなのか?」と、梨田氏は鈴木氏に直接尋ねた。
鈴木氏はこう答えたという。「ナシ、ワシはアカンのよ。妙におだてられたり、励まされたりしたらアカンのや。例えばゲーム前、ブルペンで仕上げの投球練習をするやろ。そのとき、ボールが走っていなくてもナシは『いいですよ、大丈夫ですよ』とか言うてくれる」
常に投手を立て、ふがいない投球をして負けてもその責任は自分が取るというスタンスの梨田氏に比べて、有田氏は気が強い。投手がダメなときは、ダメだとはっきり言う。その言葉に鈴木氏は「何を!」と頭にくるが、それをエネルギーに変えていた。梨田氏が技術面で劣るということではなく、あくまでも相性から有田氏を指名していたのだ。
「選手をおだてて、励ます」という鈴木氏の評価は、梨田氏のキャラクターをよく言い当てていた。投手に寄り添い、盛り立てる梨田氏は、チームの誰からも愛され、信頼され、一目置かれる魅力にもつながっていた。
1年目は自分のやりたい野球で最下位に…
梨田氏は1988年に現役を引退すると、野球評論家、そして近鉄コーチや2軍監督を経て2000年に近鉄の監督に就任した。
チームの現場責任者である監督は、自分のやりたい野球をめざすために、ポリシーや戦術を携えてシーズンに臨む。梨田氏にもやりたい野球があり、ポリシーや戦術を練っていた。そのポリシーは、1年目には下位に沈んでいたチームの雰囲気を明るく楽しいもの変えることであった。その雰囲気になれば、各選手が気持ちを前向きにして、自分の能力を伸ばすことに目を向けると考えていた。選手時代と変わらぬ梨田氏のキャラクターを反映しているものといえる。
一方、戦術においては、走力を活用した機動力野球をめざした。盗塁やヒットエンドランで走者が走ると、相手チームの野手はベースカバーに動く必要がある。野手を本来の守備位置から動かすことになり、攻撃面で有利な状況をつくることができると考えたからだ。自分が捕手の立場だったときには、そうやって走力を使うチームに最も神経を使っていたという理由もあった。
しかし、バファローズの選手には機動力野球の源となる走力や知識がなかった。そのような状況で戦術を実行したところ、変化球と読んだ梨田氏が盗塁のサインを出し、読み通りに変化球が投げられたにもかかわらず、ランナーがアウトになることが頻発。こうした戦術面の誤算もあって戦績は最下位に終わった。梨田氏は1年目の結果から、自分のめざした戦術が、チームにとっては「ないものねだり」であったことに気付かされたのだ。
2年目で「戦術」を極端に変えてリーグ優勝
1年目に機動力野球で失敗した梨田氏が、2年目に取った戦術は「打ち勝つ野球」であった。盗塁などの細かい策を練っても実らないのならば、他の能力で勝負しようと考えた。
当時のバファローズは長打力には定評のある選手数人がいた。長打力はあるが打率は高くないというリスクを承知の上で、戦術を転換。7点取られたら8点取り返すような野球でいいと梨田氏は考え、自分の“やりたい”戦術から“選手や戦力に合った”戦術に転換した。
その結果、攻撃時には盗塁を一切仕掛けない采配に変貌。開幕から20数試合、チームの盗塁はなんと「0」。この采配の変化は戦績としてはっきり表れた。打ち勝つ野球で、4月終了時点で16勝11敗1分けとなり、首位に立っていたのである。
「いてまえ打線」と呼ばれた攻撃陣はシーズンを通じてこの采配に応えた。特に目立ったのがクリーンアップの3人だ。3番のタフィ・ローズ選手が55本塁打、131打点、4番の中村紀洋選手が46本塁打、132打点と記録的数字を残してチームをけん引。捕手兼外野手だった磯部公一選手は、この年、外野手に専念、5番打者として打率.320、17本塁打、95打点の好成績を残した。
2年目も「明るく元気に」のポリシーはそのまま
戦術は大きく変えた梨田氏だが、明るく楽しくというポリシーは2年目も変えなかった。自分から積極的に選手に声をかけ、コミュニケーションを心がけた。すると1年目には勝負に集中するあまりに見落としていた選手の変化が手に取るように分かってきた。
その象徴的な存在が、戦力補強で阪神からトレードで獲得した北川博敏選手だ。彼のことは、梨田氏は近鉄入団以前から見ていた。いつも明るく、楽しそうにプレーしており、北川選手はいくら出番がなくても腐ることなく、2軍戦でもチームが勝てば喜び、他の選手が結果を示せば声を出し、うれしそうにするという他人のことを喜べるタイプだった。
こういう選手がいるとチームが活気づくと考えていた梨田氏は、北川選手を結果がでなくても近鉄では1軍で起用し続けた。そして北川選手の姿勢が、チームに最後まで諦めないというムードをつくり上げるまでになった。
北川選手はチームの雰囲気を盛り上げただけなく、自身のバットで近鉄へ優勝を引き込んだ。マジック1で迎えた重要な試合、3点ビハインドで迎えた9回裏に無死満塁に代打で登場した北川選手が、満塁ホームランで優勝を決めたのだ。このシーンは球史に残る劇的な光景として、今なお野球ファンの心に刻まれている。
確実で好不調の波がないといわれる走力や守備力に対して、波がある水物とされる打撃力。それがシーズンを通して爆発した背景には、梨田氏のポリシーによって育まれた、取られても諦めずに取り返す、というが気持ちがチームに芽生えたからだった。
能力を生かすマネジメントが成果を生む
バファローズの消滅まで監督を務めた梨田氏はその後、2008年からは北海道日本ハムファイターズの監督となった。そこでも2年目に優勝を果たした。2016年からは楽天ゴールデンイーグルスで監督として2年連続最下位のチームを引き継ぎ、今度は優勝とはいかなかったが2年目に見事、Aクラス入りを果たした。
チームスポーツの場合、不本意な成績で現場を去る監督には「私の理想とする戦術を実現できなかった」と口にする人が多い。戦術も重要だが、チームの戦力をしっかりと分析して、戦術を選ぶことも監督には必要な能力である。
ビジネスにおいて、部下の能力が足りないために、自分の思うように事業が進められないと嘆く管理職も少なくない。しかし、管理職は基本的に現有戦力で戦うしかない。そんなときに変えるべきなのは戦術のほうだ。まずは、部下が不得手なことを要求していないかを振り返る。次に、部下が得意とすることで成果の上がりそうな戦略を考えてみる。現有社員で最大限の結果を生み出す戦術は何かを考え直すのである。それが現実的な成果を生み出すマネジメントではないだろうか。
【参考文献】
梨田昌孝『近鉄バファローズ猛牛伝説の深層 (追憶の球団) 』ベースボールマガジン社刊
梨田昌孝『戦術眼』ベースボールマガジン社刊