さまざまなアスリートにご登場いただく当コラムでは、オリンピックに関する記述も多くなる。それぞれのオリンピックの開催年を見て、もうあれからずいぶん年月が流れたのだな、と感傷に浸るときもしばしばあるが、特に今回はその思いがひとしおである。
バルセロナオリンピックの競泳女子200m平泳ぎで金メダルを獲得した岩崎恭子さんは、今年44歳になった。女子200m平泳ぎの決勝が行われた1992年7月27日、岩崎さんは、その6日前に14歳になったばかりの少女だった。あれはもう30年前の出来事なのだ。
中学校2年生の女子がオリンピック出場選手に選ばれただけでも素晴らしい快挙だ。岩崎さん自身も決勝に残り、当時、長崎宏子選手が持っていた競泳女子200mの日本記録である2分29秒91を更新することを目標にしていた。その目標もかなり高いハードルに見えていただろう。岩崎さんの自己ベストは、前年に記録した2分31秒08だったのだから。
予選レースが行われる会場に着いた岩崎さんは驚いたという。隣のレーンの泳者は、当時の世界記録2分25秒35を保持し、金メダル獲得が有力視されていたアメリカのアニタ・ノール選手。その6秒近いタイム差から、岩崎さんにとってはついていくのも困難な相手だと思われたからだ。
しかし、いざレースが始まると状況は一変する。レース中盤で5位争いをするなど好位置につけていた岩崎さんは、後半になってさらにスピードを上げていく。そして大歓声の中、ノール選手に続く2位でゴールするのだ。記録は自己ベストを実に4秒近く更新した2分27秒78。目標としていた長崎選手の記録も上回る日本新記録をたたき出し、見事決勝へと進んだ。
おそらく世界中の人たちを大いに驚かせた岩崎さんの予選2位通過。そして驚きながら、同時に不安を覚えた人も多かったかもしれない。この少女は、決勝でも同じような泳ぎができるのだろうか、と。しかし当の本人は意外とリラックスしていたという。午後に決勝を控えた昼食に日本食の弁当が出されたことが岩崎さんにはとてもうれしかったようで、いつもは2個しか食べないおむすびを4個平らげたそうだ(岩崎恭子 母と娘が見つけたほんとうの金メダル 柴田充著 参照)。
そして決勝レースがスタートした。決勝レースでもノール選手が飛び出した。岩崎さんは予選と同様に序盤は5位あたりにつけていたが、100m通過時は3位。150mのターンでは2位に上がる。それからなおもピッチを上げていく。その時の状況を彼女は次のように振り返っている。
「正直いって飛び込んで泳ぎ始めてからも、どういうふうに泳いでいるのか、まったく覚えていないんです。とにかく気持ちいいだけで。どんどん進んでいくし、ほんとに疲れないから、もっともっと泳げちゃうんじゃないかっていうくらいの感じ。水をかけばかいた分だけ、その通り進んでいくみたい」
(同著より)
周囲が天才と認めるだけの資質に加え、オリンピック代表に選ばれた後、静岡、さらにヨーロッパでの強化練習で3カ月間にわたる猛練習を続けた。そうした才能や努力がその日、プールの中で奇跡のように結実したのだろう。
ゴールまで25m、10m、さらにピッチは上がっていく。そしてゴール前でノール選手の前に出ると1位でゴールした。タイムは2分26秒65。岩崎さんは当時のオリンピック新記録で金メダルを獲得し、競泳史上最年少の金メダリストとなった。
ゴール直後のインタビューで彼女が言った言葉を覚えている方も多いだろう。
「今まで生きてきた中で一番幸せです」
気持ちよく泳ぎ、最高の結果を得たのだ。それは14歳の少女の飾りのない気持ちだったのだろう。
早く成果を出した人材を見守る
そうしてオリンピックの大舞台で一番幸せな体験をしたにもかかわらず、その後の2年間の記憶を岩崎さんは持たないという。
バルセロナオリンピックから帰国すると、彼女は日本で最も有名な中学生になっていた。自分を取り巻く大勢の人たち、彼らがもたらす狂騒は日常生活や、家族にも影響をおよぼすまでになっていたという。そのような事態から自分を守るために、岩崎さんは自ら心を閉ざすことにしたのかもしれない。
水泳に対する意欲も失ってしまった。そんな岩崎さんを支えたのは家族のみなさんだった。母である真知子さんはこう述べている。
「中略~私は、たとえ金メダルをとったからって14歳の子どもに変わりはないという思いがとても強くありました」
(同著より)
そんな気持ちで接してくれる家族の存在が、岩崎さんを静かに力強く支えたのだろう。
ビジネスの現場でも、入社間もない、まだ組織人としての意識を確立する前の人材が成功を収めるときがある。周囲のメンバーや上司は、その成功を一緒に喜びつつも、成功はずっと続かないことを踏まえ、その若い人材を見守り、それから始まる長いキャリアを闘っていけるような土台を作れるようにサポートすることが大切だろう。
岩崎さんは、1996年に開催されたアトランタオリンピックに出場を果たした。メダル獲得はならなかったが、彼女は長い雌伏の時を経て、再び競技者としてのモチベーションを取り戻したのだ。その後も水泳の指導者、テレビのコメンテーターなどとして広く活躍している岩崎恭子さん。あれから30年。その長い年月の間にいくつもの「一番の幸せ」があったと、大人の女性となった彼女の美しい笑顔から想像できる。