はとバスの前身に当たる新日本観光は、1948年8月に設立されました。設立の中心となったのは、東京地下鉄道(現・東京地下鉄)出身で東京都交通局に勤務経験を持つ山本龍男でした。
当時はまだ、戦後の混乱が収まっていない時代。食料や生活用品の確保が困難で、人々の多くは観光の余裕などありませんでした。しかし龍男は、復興したら観光事業が重要になると考え、いち早く観光バス事業に乗り出します。
龍男は「内外人を対象として、内は国内観光に新時代にして快適なサービスを供する」「外は国際観光客に対して本事業を通じて新生平和日本の真の姿を紹介」することを趣旨に掲げ、新日本観光を設立しました。物資の不足が著しく、バスは中古バスを集め、燃料は廃油まで利用しなければならないような状況でしたが、1949年1月1日に新日本観光は最初の観光バスを走らせました。行き先は、成田山新勝寺。成田山初詣の団体貸し切りバスです。
そして2カ月後の3月には、龍男が当初から思い描いていた都内を巡る定期観光バスをスタートさせます。コースは、上野駅を発車して上野公園、皇居前、赤坂離宮(現・迎賓館)、浅草観音を3時間半で回る「都内半日Aコース」。ちなみにこのスタート時点から、女性バスガイドが観光案内をするスタイルを採用していました。そして、7月には、東京駅と新宿駅からも運行を開始しました。
キャッチフレーズは、「お一人でも乗れる東京定期観光バス」。当初、バスは「富士」と名乗っていましたが、スピードと平和、安全に元の場所に戻ってくるという意味を込めてバスに付けていた鳩のシンボルマークにちなみ、「はとバス」を愛称とすることになりました。
ただ、はとバスは最初から順調だったわけではありません。最初の「都内半日Aコース」は9時と13時の1日2便で、料金は大人250円。国鉄(現・JR)の初乗りが5円の時代ですから、決して安い料金ではありませんでした。また、戦争の爪痕が残る東京には観光需要もそれほど大きくはなく、乗客が数人という日もありました。
しかし、日本の高度経済成長とともに東京は発展を遂げ、次々と観光名所ができ、観光需要も盛り上がっていきます。それに伴い、はとバスの利用者も増えていきました。そして1963年には、社名を新日本観光からはとバスに改称します。
はとバス人気の起爆剤となったのが、1964年に開催された東京五輪でした。開会直前に開通した東海道新幹線によって東京への交通の便が格段に良くなったこともあり、大会の会場などを巡るコースが大きな人気を呼びました。そして、現在に至るまではとバスは、東京観光の定番であり続けています。
時代に合わせたコースで観光ニーズに応える
はとバスが東京観光のロングセラーになっている理由の1つとして、時代に合わせて多彩なコースを開発してきたことが挙げられます。はとバスは開業時から、外部の旅行会社に頼らず、ずっと自社でコースを考えてきたのです。
例えば、老舗料亭「松葉屋」でのおいらんショーを組み込んだ「夜のお江戸Eコース」を1951年に開発。1958年に東京タワーが完成すると翌年には「東京タワーAXコース」を設けるといった具合に、多彩な視点でコースを開発してきました。
特に新名所はいち早くコースに取り込み、大型テーマパークのブームが来ると「東京ディズニーランド一日」「サンリオ・ピューロランド一日」などのコースを設定。ベイエリアの開発が進むと「臨海副都心とゆりかもめコース」「東京ベイサイドとアクアラインコース」などのコースを用意して、人気を博してきました。
近年はインバウンド需要が高まっていますが、新日本観光の設立趣旨にもあったように、訪日外国人を早くから意識していたのもはとバスの特長でしょう。会社設立から間もない1952年には「昼の外人Sコース」を設定。歌舞伎や相撲など、日本文化を体感できるコースを次々と運行してきました。現在も外国語コースを多数取りそろえ、訪日外国人向けのコースの開発にも努めています。
しかし、はとバスはただ闇雲に新しいコースを作り続けているわけではありません。はとバスはあまり知られていない見どころや娯楽を紹介する新規コースだけでなく、「期待通りの東京」「一度訪れてみたかった東京名所」をたどる王道、定番のコースも用意しています。その代表が、開業当初に設けられた「都内半日Aコース」。「東京半日(A)コース」と名称は変わっているものの、皇居前広場、浅草観音などを回るコースとして今も残っています。
はとバスは創業から70年を超えた今も、多くの観光客に愛され続けています。それは、時代のニーズに応じて開発した新規商品と、ブランドを支えてきた定番商品の両輪がうまく機能しているからかもしれません。