事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第16回は、大阪市でバイク部品販売業を営む日本モーターパーツ(現カスタムジャパングループ)の2代目社長を務めた村井達司氏。村井氏は2008年に息子の基輝氏に事業承継し、現在、第二の人生を謳歌中だ。
同社の歴史をたどると、村井氏の父親が地域の自転車屋として、戦後に事業を起こしたのが始まりだ。10代から自転車屋で奉公した経験を生かし、戦争から戻ってきた後、大阪市の鶴橋に「丸竹自転車店」を構えた。主に自転車の販売やパンク修理などをしていたが、1954年に鶴橋部品として“地域部品商”といわれる、バイクや自転車の部品を卸して配達販売する事業も始める。2年後の1956年に法人化した。
幼い頃から家業を営む両親を見ながら育ち、店に出て手伝うことも多かったという村井氏は、「父はまじめで厳しく、仕事が趣味のような人だった」と振り返る。「中学を卒業したばかりの若者を、家の近くの寮に住み込みで雇っていた。小学生の頃は、そんな社員と一緒に布団を並べて寝たこともある」(村井氏)
村井氏にとって家業は身近なものだったが、後を継ぐことには興味を持てずにいた。また、父も村井氏に対して、承継をにおわすことはなかったという。高校を卒業した村井氏は、横浜国立大学工学部・機械工学科に進学。ただ、「時代は学生運動のまっただ中。卒業式もできないような状態だったので、大学院に進むより早く社会に出て働きたかった」と話す。
村井氏が就職先に選んだのは、総合商社だった。「その頃は商売にも興味を持ち始めていて、自分の裁量で働けることが魅力だった」という。商社では輸入工作機械の国内販売を担当した。
そんなサラリーマン生活を始めた村井氏だったが、入社から3年たった時に、父親が急な病気で倒れた。商社の仕事に未練はあったものの、村井氏は大阪に戻ることを決意する。25歳で鶴橋部品(現日本モーターパーツ)に入社。幸いにも体調の回復した父親と二人三脚での事業運営が始まる。だが、度重なる意見の相違で、大げんかをすることも多かったという。「入社から間もなくの頃、それならもう東京に帰ってやる!と本当に東京に戻ったこともある」と村井氏は苦笑いする。
そんな二人三脚の経営を続けていく中で、村井氏はやがて専務となり、実務を取り仕切るようになる。そして、1993年に45歳で社長に就任。父親は会長となった。社長として父から受け継いだ会社を背負いながら、村井氏は少しずつ次に訪れるであろう自分自身の承継問題についても考えるようになっていった。
村井氏には息子がおり、「父が興した会社を受け継いでいくために、後を継いでくれたらうれしい」という思いは持っていた。しかし、その一方で、「業界的に今のままの業態では厳しいだろうと思っていた。無理に継げと言うつもりはなかった」という。
息子の基輝氏が20歳を過ぎた頃からは、父と子の会話も少なくなっていた。基輝氏はコンピューターの専門学校に通いながら、クラブDJとして活躍。知人たちと起業したITベンチャー企業で取締役に就いた。勢いのある業界で自由に働く息子に対し、「自分の時代とは違って、家族という意識が希薄なのかと、親としては少し寂しい思いもあった。父と息子の関係など、どこもそんなものかもしれないが……」と村井氏は当時の心境を振り返る。
村井氏がそんな複雑な思いを持っていた2003年。基輝氏が28歳の時、出資を受けた事業が難航し、役員任期終了とともに退任した。基輝氏がその後の進路を迷っていたタイミングと、55歳を迎えた村井氏が会社の行く末を考えていた時期がちょうど重なった。ここで初めて、村井氏は基輝氏に承継のことを口にした。
「自分の年齢を考えても、あと10年は続けない。おまえが継がないならあと数年で会社を畳もうと思うが、どうするか」。今でこそ部品商の業界でM&Aが行われることもあるが、当時はまだそんな事例はほとんどなかった。息子に託すか、会社を畳むか、当時の村井氏には2つの選択肢しかなかった。
一方、最先端のIT業界に身を置いてきた基輝氏がどう思っていたかを尋ねると、「電話で注文を受けて手書きの伝票を付け、部品をトラックで配達するという昔ながらの商売をしている家業は、正直『カッコ悪いなぁ』と感じ、承継することに気が進まなかった」と言う。
しかし、鶴橋部品のバランスシートを見た瞬間、基輝氏の心が動くことになる。「『どうせ赤字だろう』と思って眺めたら、そこにはある程度のキャッシュがあり、しっかり利益が出ていた。仕入れと売り方を変えれば、拡大のチャンスがあると感じた」(基輝氏)。その結果、2003年、基輝氏は鶴橋部品に入社する。
基輝氏の心を動かした会社の手堅い財務状況。それに関して村井氏は、「先代から、借金は絶対にしてはいけないという教えがあり、それを引き継ぎ守ってきた。とにかく、堅実に商売をしてきた」と説明する。
入社後、基輝氏は近畿一円の古くからの取引先に出向きあいさつをしつつ、少しずつ社内のIT化を進めた。そして2005年、基輝氏は思い切った戦略に出る。バイク販売店や整備工場向けに部品をインターネット販売するサイトを立ち上げ、その事業を行うためにカスタムジャパンという別会社を立ち上げたのだ。
卸や仕入れをこれまで通り鶴橋部品が行い、仕入れた部品をカスタムジャパンがインターネットで販売する体制をつくった。また、国内の商社や問屋から仕入れていた部品を、新たに海外のメーカーを開拓し、直接仕入れる方法も導入した。村井氏もこうした体制変更に賛成した。「古い会社では、いろいろなしがらみがある。新しいことをするには新しい会社にした方がいい」と考えたという。
[caption id="attachment_33461" align="aligncenter" width="300"] 息子の基輝氏が構築したカスタムジャパンの通販サイト。顧客は欲しい部品を、フレームナンバーや型式などから検索できる[/caption]
バイク部品業界の中ではかなり早くからインターネット販売を始めたカスタムジャパンは成長を遂げ、現在は国内外メーカーの部品約30万点を取り扱い、サイトの会員数は7万社に上る。バイク部品販売は日本では縮小産業であっても、アジアでは成長産業。今後は、さらなる海外展開の拡大を見据えている。「創業者の代からある商品情報の蓄積や取引先との信頼関係という財産があったからこそ、通販サイトをスムーズに構築することができた。これらのバランスシートにはない無形資産がありがたかった」と基輝氏は話しているという。
2008年に鶴橋部品は日本モーターパーツに改名。同じタイミングで60歳になった村井氏は日本モーターパーツの社長を退任し、会長となる。5年後の2013年に完全に退いた。現在、日本モーターパーツはカスタムジャパンのグループ会社として、基輝氏が社長を兼任している。
[caption id="attachment_33475" align="aligncenter" width="420"] 2013年12月の社員総会での記念写真。村井氏は息子や社員たちに見送られて晴れやかに退任した。1列目、左から4番目が村井氏、同7番目が息子の基輝氏[/caption]
会社にしがみつくのではなく、新しい人生を歩みたい
もともと65歳で完全に引退したいと考えていた村井氏は、計画通りに第二の人生へと踏み出すことができた。
「創業者と2代目は会社に対する思いが違う。私は今、株式もカスタムジャパンのホールディングス会社にすべて譲渡し、息子の事業に口を出す権利もなければ、業績に責任もない状況。しかし、寂しさはまったく感じないし、タイミングも良かったと感じている。それも、すべて息子の事業がしっかり軌道に乗っているからこそだろう」(村井氏)
一時は畳むことも考えた家業を基輝氏が継続し、発展させてくれたことに、村井氏は喜びを感じている。「どこで勉強したのか知らないが、経営能力がないとできないこと。新しい時代の商売の仕方は見ていて楽しい。厳しい世の中ではあるが、66年継続している会社をさらに発展させていってほしい」と期待を寄せる。
「中小企業の社長には休みはない。事業をしていたときは旅行にも行けなかった。やりたいことがたくさんあった」という村井氏。退任後は海外旅行を楽しんだ後、水墨画や書道、落語と多彩な趣味を楽しんだり、シニアスクールで歴史や古典芸能を学んだりと寸暇を惜しんで活動している。「むしろ今の方が忙しいくらいだ」と充実した毎日に笑顔を見せる。2020年に72歳になったが、ランニングに山登りにと、村井氏の興味は尽きないようだ。
[caption id="attachment_33465" align="aligncenter" width="300"] 水墨画や書道をたしなんだり(写真上)、プロの落語家に稽古指導を受けて年に2回発表会で披露したり(写真下)と、引退後は日本の伝統芸能や芸術への造詣を深めている[/caption]
村井氏は親子承継がうまくいく秘訣として、「信頼できることが前提ではあるが、任せたら口を出さないこと。いろいろな考え方、生き方があると思うが、私は未練がましく仕事にしがみつく生き方ではなく、好きなことで第二の人生を歩むことを選んだ」と語る。 仕事から離れ、基輝氏とは普通の親子に戻った。父親として、これからも息子の頑張りを陰ながら応援していく。