金子コード(ケーブル・医療用チューブの製造販売、食品の生産販売)
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第17回、第18回は、電話コードなどの各種ケーブルや医療用カテーテルを製造販売する金子コードの事例を紹介する。創業から80年を超える歴史を持つ同社は、さまざまなピンチに直面してきたが、それを新規事業への挑戦で乗り越えてきた。2005年に父親から事業を承継した3代目社長の金子智樹社長は、今まさに、危機に強く、長く継続できる会社であり続けるために新規事業を育てている最中だ。第17回では、金子智樹社長の事業承継の準備と、今に生きている先代社長の教えなどに焦点を当てる。
(かねこ・ともき)東京都生まれ。青山学院大学経済学部卒業。1990年4月 金子コード株式会社入社。1994年シンガポール現地法人のKANEKO(ASIA)PTE LTD.の初代社長に就任。以来、中国生産拠点の金子電線電信(蘇州)有限公司と併せた海外事業の責任者としてグローバル営業・経営に従事。2005年、代表取締役社長に就任。2019年11月被災地復興支援活動「奇跡の一本松、支援プロジェクト」のメンバー代表としてローマ教皇に謁見。キャビア事業など、自社の新規事業をけん引するとともに、SUNDRED/新産業共創スタジオにおいて中小企業の活力を日本の産業活性化、新産業共創のドライバーにすることをめざしている。
金子コードは1932年に金子智樹社長の祖父、正雄氏が東京品川区で創業。当初は日本電信電話公社(電電公社・現NTT)の指定会社から電話コードの製造を請け負っていた。しかし、孫請けのままだと成長には限界がある。正雄氏は大幅な設備投資をして、試作品を作っては粘り強く売り込みを続け、電電公社からの直契約を勝ち取った。
1978年に金子社長の父、正一氏が2代目社長となる。ちょうどその時、長男の金子社長は10歳。当時は会社と自宅が隣接しており、金子社長が社員と交流する機会も多かったという。自分がやがて社長になることに疑問を抱くことなく育った。
「後を継ぐ以外の選択肢がない環境で育ったので、迷ったことは一度もない。それに、働く父の姿は子ども心にカッコよく見えた。中学・高校生の頃には、テレビドラマに登場する会社を見ると、自分はどんな社長になればいいのかと考えていた」(金子社長)
そして、金子社長は大学の経済学部を卒業後、1990年に金子コードに入社する。「時代はバブル全盛期。売り手市場で学生の多くが大手企業に就職した。その一方で、中小企業は人手不足による黒字倒産が問題になるほど採用が困難な状況で、金子コードも例外ではなかった。いずれ金子コードを継ぐことは決まっていたので、それなら1分1秒でも早くここで働いたほうがいいだろうと考えた」と振り返る。
意気揚々と入社したものの、金子社長はまず一般社員として営業業務を命じられた。「給与も待遇も、一番下っ端。大手に入社した大学の同級生とは比べものにならないほどの安月給だった。しかし、何の特別扱いも受けず一般社員として見ることができた景色のおかげで、社長になった今でも非常に経験が生きていると感じている。承継候補として特別扱いせずにスタートを切らせてくれたことは、非常に感謝している」と語る。
「会社や仕事の文句を言う同僚や先輩もいて、そんな本音を聞くことができたのは貴重な経験だった。同僚や先輩たちを追い抜いてやがて社長になるということがどういうことなのか、当時は想像もできなかったが、とにかく偉そうな社長にだけはなってはいけない、ということは考えていた」と金子社長は振り返る。
海外進出の責任者として、経営の厳しさを学ぶ…
従業員80人ほどの規模にまで成長していた金子コードは、1980年代半ばまで電電公社の指定会社として安定した受注があり堅実な経営を続けていた。しかし、1985年の民営化により、事業環境は激変してしまう。電話コードの生産に大手家電メーカーが参入し競争が激化。加えて、電話のコードレス化が進み、電話コードの市場は縮小していく。金子社長が入社してすぐに、金子コードは創業以来初の赤字に転落した。
[caption id="attachment_34239" align="alignright" width="300"] 金子コードは創業以来、電話コードやインターネット用LANケーブル、USBケーブルなどの各種ケーブルを製造している[/caption]
危機意識を持った当時、社長を務めていた父、正一氏は2つの大胆な決断を下した。海外で電話コードを製造するグローバル展開と、既存技術を生かしてカテーテルを製造する医療業界への進出だ。
海外展開のスタートとして、シンガポールに法人を設立するのと同時に、中国に生産工場を立ち上げた。突然金子社長は、正一氏から「シンガポールに行ってこい」と、立ち上げたばかりの現地法人の社長を任された。
法人登記をしただけで、まだ何もないシンガポール拠点を任された27歳の金子社長。「何をすればいいのか」と聞くと、正一氏は「それを考えるのがお前の仕事だ」と言う。いつもは温厚な父だったが、この時ばかりは「もし失敗したら、社員たちはどんな目でお前を見るか分かるか。帰ってくる場所はないぞ」と厳しい言葉をかけたという。
「何もしなくても、家賃や光熱費などの経費が引かれていく。とにかく動かなければと焦りが募った。父は、後継者としての経験を積ませ、社員たちの信頼を得る社長になれるように、あえて私を谷底に落としたのでしょうね。子会社ではあるが、1つの組織の立ち上げから運営までトップとして経験し、経営者の大変さや大切さをここで学ぶことができたと考えています」(金子社長)
ここから数年かけて、金子社長はシンガポール法人で、営業とマーケティング、さらに中国工場の生産管理の拠点として仕組みを構築。日本の大手家電メーカーが海外で生産・販売する電話のコードを受注することなどで業績を上げた。
1997年に帰国した後、金子社長は常務、専務を歴任し、正一氏とともに本社の経営に携わった。そうした経験を金子社長に積ませてきた正一氏は、自分が65歳になる2003年に事業承継をするつもりだった。
しかし、その直前に、またも金子コードは苦境に陥る。携帯電話の普及で公衆電話の生産台数が減少。さらにインターネット回線の無線化も進み、売り上げが急激に減少したのである。2000年に過去最高の28億9000万円の売り上げをたたき出していたにも関わらず、翌01年には20億6000万円に激減。かつてないほどの大赤字を計上した。さらに大量の在庫も抱えてしまった。
一般社員からスタートさせて“雑巾がけ”を経験させ、子会社の社長など困難なプロジェクトを遂行させることで、経営の難しさをたたき込み、同時に社員の信頼を得るといった具合に、順調に進んでいた金子コードの事業承継。それが一転、親子で経営再建に必死に取り組むことになった。