中尾食品工業(こんにゃくの製造・販売)
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第34回は、大阪府堺市で90年以上にわたりこんにゃくを製造・販売する中尾食品工業の中尾康司会長。祖父が創業した会社を3代目として引き継ぎ、2013年11月に、当時25歳だった息子の友彦氏に事業承継した。
中尾康司(なかお・やすじ)
1954年、大阪府生まれ。1976年、追手門学院大学経済学部を卒業後、鶴田商事(現オリヒロ)に入社。1978年4月、中尾食品工業に入社し専務として工場と営業を統括する。2002年10月に代表取締役に就任。2013年11月に長男の友彦氏に事業承継し、取締役会長となる
中尾食品工業は1927年に中尾会長の祖父・菊松氏がこんにゃくを製造・販売する「中尾商店」を創業したのが始まりだ。当時は自転車やリヤカーにこんにゃくを乗せて運び、近所の八百屋や豆腐屋に卸していたという。
子どもの頃から家業の後継ぎとして育てられた中尾会長は、「長男だから継がないといけない。決まった線路の上を歩けという周囲の目がプレッシャーで、社長になる道に挫折しかけたこともあった」と話す。
中尾会長には、他にやりたいことがあった。高校生の時からのめり込んだのは、自動車の競技会(ラリー)だった。まだ免許のない高校生時代はナビゲーターとして参加し、免許取得後はドライバーに転向した。レースに参加して入賞するほど熱中したが、「二兎を追う者は一兎をも得ず」と家業に専念することを決めた。
大学では経済学を専攻し卒業後は群馬県で、こんにゃく製造機械、食品包装機械の製造などを手がける鶴田商事に就職した。「当時、2代目社長となった父親が最も困っていたのが、こんにゃくの包装機のトラブルによる大量ロスでした。そのため、包装機械などの修理技術を学んできてほしいと望まれたのです」(中尾会長)
2年間鶴田商事で働き、中尾食品工業に入社した。その当時、鶴田商事で開発した「ハイ マンナン」というこんにゃく芋を原料とするダイエット食品を共同販売し、これが大ヒットする。中尾会長も薬局を相手に営業担当として奔走した。
鶴田商事で学んだ知識を生かし、中尾会長は工場の機械設備をどんどん拡大していった。
「機械で作っても手作り感のある、おいしいこんにゃくを作りたいと思っていました。自動化を進める中で、昔ながらの板こんにゃくを真空包装する機械を導入しました。真空包装をすれば新鮮さを保てます。そして、一つひとつ小分けにしたことがお客さまに喜ばれ、人気商品となりました」(中尾会長)
ここで従来の八百屋や豆腐屋だけでなく、スーパーにも販路を広げた。「父と2人で営業活動をして、売り上げは毎年2桁で伸びていきました。運送用のトラックも9台、10台と増えていきましたし、製造が追いつかないくらいでした」と中尾会長は振り返る。
中尾食品工業の商品。近年は有機こんにゃくに力を入れている
父親の忠雄氏は、経理など数字に強いタイプ。「機械屋が帰ってきたのだから」と、中尾会長が戻ってきてからは工場に入らなくなったという。「トップが2人いるとややこしいんです。父親と私の言うことが食い違ったりしてもめたことがありました」と中尾会長。その解決策として忠雄氏が経理面、中尾会長が製造現場を担当して役割分担しながら会社経営を続けた。その後、2002年に忠雄氏から社長の座を引き継いだ。
「その後も攻めの経営を続けました」と話す中尾会長の言葉の通り、農林水産省の所管から有機JAS認証事業者にもなり、有機栽培こんにゃく芋100%のこんにゃくや、わらびもち風こんにゃくスイーツなど、新商品を次々に生み出した。中尾会長の入社時は従業員3人ほどだった会社が、30人を抱える会社へと成長した。
入社半年で「社長をやらせてくれ」と直談判…
中尾会長は機械を触るのが好きで、もともと職人気質。「機械いじりは汚れる仕事ですね。それがいいんです。溶接したり旋盤したりといった作業は、ちょっとやっただけでは身に付かないので、やればやるほどどんどん奥深くなっていきます。それが楽しく、休みなく働いてもまったく苦になりませんでした。裏を返せば、このような性質の私は社長向きではなかったと思います」と中尾会長は話す。
事業承継に関しては、長男の友彦氏が継いでくれたらうれしいという思いはあったものの、決して自分から「継いでほしい」とは言わなかった。それは、自身の苦い経験があったからだ。「私は周りから社長になれと言われることがとてもプレッシャーでした。誰だって線路に乗れと言われたら乗りたくなくなりますよね。その点、自分からやりたいと言って始めたことには、自分で責任を持ちます。そう考えていましたから、子どもには後を継げとは言わず自分から言い出すのを待ちました。もし他にやりたいことがあるなら、その道に進んでもいいと思っていました」(中尾会長)
一方、友彦氏は子ども時代を次のように振り返る。「子どもの頃は、家業を継ぐことを意識したことはありませんでした。ただ、事務所の隣に家があって、その裏に工場がありました。会社の敷地内で生活するのが当たり前だったので、従業員さんの顔も分かりましたし、今年は社員旅行はないのかな?とか、幼いながらも会社の状況は何となく見えていました」
[caption id="attachment_42826" align="alignright" width="300"]
中尾会長(左)と長男で現社長の友彦氏[/caption]
そして、友彦氏は高校時代に「家業を継ぐ、継がないにかかわらず社長になろう」と決めたという。そのために大阪の大学を卒業後、証券会社に就職した。「経営者になろうと決めていたので、社長業に近い仕事ができること、また業界的に離職率が高いのもかえって自分には都合がよく、辞めやすいだろうと思い選びました」と友彦氏は説明する。
証券会社で働き始めて1年半ほどたった時、2代目の忠雄氏が脳梗塞で倒れる。家族会議を開き、忠雄氏が担っていた経理面のサポートが必要だろうと友彦氏は家業に戻ることを決意。2013年4月に中尾食品工業に入社した。
忠雄氏は幸いにも一命をとりとめ、経理の業務に復帰したため、友彦氏はまず工場で働き、こんにゃくの製造を学んだ。異業種の証券会社で働いていた友彦氏には中尾食品工業の改善点が多く目についた。そこで、入社から半年後には「社長をやらせてくれ」と中尾会長に直談判した。もともと社長という立場にこだわりのなかった中尾会長は「代わるんならいつでもやってもらえればいい」と承認し、2013年11月に社長を交代した。
ようやく思い通りに会社経営できるようになった
当時、友彦氏は25歳。いくら社長の座を譲ったからといって中尾会長も代表権を持ち、しばらくは後ろに控えるという経営スタイルも一般的だ。しかし中尾会長は代表権のない会長になった。しかし、それでも肩書と実情は異なっていたという。
「社長を譲ったとはいえ、権限はどうしても自分にあるので、息子がやりにくそうにしているな、というのがだんだん分かってきました。そこで、途中からできるだけ口を出さないようにしよう、裏方から応援しようと決めたんです。親子で経営に当たるのは実は難しいですよ。初代の祖父、菊松と父の忠雄がとても仲悪くて、もめているのも見てきました」
経営から距離を置こうとした中尾会長だが、苦悩もあった。「息子にとっては勉強だから口を出さないようにと思うけれど、その勉強で失敗して負債になることがあります。失敗の回復にはお金がかかります。少ない金額の失敗で勉強できればいいけれども、どこまで失敗させていいか、そのさじ加減は難しかったですね」
一方、友彦氏はこのように感じていた。「会社のことを理解する期間もなくすぐに社長になったので、分からないことが多かったんです。肩書は自分が社長でも、実質的な決定権はずっと父が持ったままでした。改善点を提案しても、父の反対意見のほうが通ってしまい、なかなか改革が進められないもどかしさがありました。現場を知り、戦える力を付けていかなくてはと最初のうちは必死でしたね。自分が思うような会社経営ができるようになったのは、2年前くらいからです」(友彦氏)
遠くから家業を見ると分かることがある
今後、中尾会長が友彦氏に期待するのはどんなことだろうか。
「新しい商品開発への挑戦はずっと続けてほしいと思います。これはすぐに成功するものでもないので、地道にやるしかありません。ターゲットを絞り、試してみてダメだったら撤退して、再びチャレンジする。その繰り返しの中で、開発商品と世の中のニーズが合うタイミングがきっと来るはずです。そして、自分自身でこれと決めた戦略に対しては、迷わず進んでいってほしいと思います」と中尾会長。
友彦氏は「当社は創業からずっとこんにゃくを作ってきました。途中、かつお節に挑戦してやめたりした経緯もありますが、軸にはずっとこんにゃくがある。今後も変わらずこんにゃくを軸に事業を続けていきたい。ただ、それだけではじり貧になるかもしれないので、フィットネス分野など、少しずらした市場にも挑戦していきます」と展望を語る。
今も変わらず、機械いじりが好きだという中尾会長。「出社日数を減らそうと思っているんですが、次から次に機械の修理が必要になるので、結局毎日のように会社に行って、部品交換などをしています」と笑顔で話す。
そんな中尾会長に事業承継の際のアドバイスを聞いた。「かわいい子には旅をさせよ、といいます。最初から家業に迎え入れるのではなく、遠くから家業を見せることが大事だと思います。私自身も、群馬の機械メーカーから中尾食品工業を見て、感じるものがありました。友彦も、証券会社を経験したことが今に生きていると思います。
友彦という名前には、友達が多くできるようにという思いを込めました。私の社長時代は、同業のつながりを大事にしてきたため、父から教わらなくても仲間にたくさん助けられました。友彦は、同業だけでなく異業種とも多く交流しています。外の風を入れることが、業界を伸ばしていく次の一手になると思います」
中尾会長は今67歳。コロナ禍が落ち着いたら、「夫婦で頑張ってきたので、2人で旅行に行きたいですね。車は今でも好きて、長距離運転もまだまだできます」と笑顔を見せる。工場の機械のメンテナンスを続けつつ、友彦氏を陰ながら応援していく。