ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2019.06.11
戦国時代の武将の命運は、さまざまな要因によって左右されました。中でも大きかったのは、どの武将と同盟を組むか、またどの武将の臣下に入るかという判断です。
そんな合従連衡のポイントの1つに「専門性」があります。中でも「水軍」の力をうまく活用できるかどうかは、戦国武将の運命に大きな影響を与えました。いくら陸の上で強くても、海や湖といった水の上では勝手が違います。その専門職である「水軍」の力を活用することには大きな意味がありました。
水軍の力を活用したことがポイントとなった戦いとして知られるのが、1555年の厳島の戦いです。安芸国(現・広島県)の毛利元就は、知略を駆使しながら次第に勢力を拡大していきました。周防国・長門国(現:山口県)を支配する大内家の実権を握っていた陶晴賢と相対することになります。
当時、元就軍は約4000人。対する晴賢軍は約2万人。元就は、圧倒的に不利な状況にありました。そこでまず、元就は「厳島に攻め込まれたら勝ち目がない」という偽りの情報を流して晴賢軍を厳島におびき寄せることにします。そして、村上水軍と交渉を始めます。
村上水軍は、根拠とする島によって能島村上氏、因島村上氏、来島村上氏の3氏に分かれていました。このうち、因島村上氏はすでに元就の側に付いています。しかし、他の2氏は旗色を鮮明にしていません。この2氏の決断が戦況を変え得ることを、元就は見通していました。
元就の三男・小早川隆景は、家臣の乃美宗勝(のみ むねかつ)を来島村上氏の頭領・村上通康の元に遣わせます。通康を味方に付けないと勝利がおぼつかないのは明らかでした。宗勝は必死の思いで「1日でよいから力を貸してほしい」と頭を下げます。
一方の陶晴賢も村上一族に声をかけていました。ただ、晴賢は書簡による依頼のみです。村上氏としても、どちらに味方するかで自らの命運が分かれます。圧倒的に多勢を誇る晴賢軍に付くか、元就軍か……。
晴賢軍は500艘(そう)もの大船団で厳島に上陸し、2万人の大軍で宮尾城を取り囲みました。ようやく村上水軍の船団が姿を現したとき、船団が向かった先は厳島ではなく、元就軍が本陣を構える対岸の火立山でした。元就軍は、狭い厳島に晴賢軍を封じ込める戦略と村上水軍を味方に付けたことにより、戦いに勝利。さらに勢力を広げていくことになります。
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戦国武将に学ぶ経営のヒント