戦国時代、勇猛さを誇る武将は数多くいましたが、その中で「不死身」とまで称されたのが武田家に仕えた馬場信春でした。
信春は、信虎、信玄、勝頼の三代に仕えました。その間、40余年にわたり70回を超える戦いに参加しながら、最期を迎えた長篠・設楽原の戦いに至るまでかすり傷1つ負うことがなかったという超人的な伝説の持ち主です。
信春は1514年(1515年という説もある)、甲斐国(現・山梨県)に教来石(きょうらいいし)信保の子・景政として生まれました。教来石家は、摂津源氏の流れをくむ家。のちに数々の武功が認められ、武田譜代の名門・馬場氏の名跡を継ぎました。そして、景政は馬場信房を名乗るようになり、後に信春と改名しました。
上杉、今川、北条、徳川との戦いで信玄を支える
信玄の父である信虎が当主を務めていた時代から、信春は武田家に仕えます。1536年には信玄の初陣として有名な海ノ口城攻めに参加。小幡盛景と共に城主・平賀源心を討ち取り、堅固な守りを誇った海ノ口城を攻め落として名を挙げます。
信春が獅子奮迅の活躍をするのは信玄が武田家を継いでからです。当主となった信玄は、諏訪・伊那に侵攻を開始。諏訪頼重を自害に追い込んで諏訪領を手にした後は伊那に軍を進め、高遠城に攻め入り高遠頼継を滅ぼします。この一連の戦いでの戦功が認められ、信春は侍大将に任命されました。侍大将は、総大将に次ぐ位。戦場では足軽大将らを統率する、非常に重要な役職です。
侍大将となった信春は、信玄の進撃を支え続けました。信濃攻めを開始した武田軍は、同じく信濃に出兵した上杉謙信軍と敵対し1561年に川中島で相まみえることになります。この戦いで、信春は上杉軍の背後を攻撃する別動隊を指揮するという重要な役割を果たします。
また1568年の駿河攻めにも参加し、武田軍は今川軍を破ることに成功します。この際、信玄は今川の館に火をかけないよう命令します。館には刀剣や茶道具など多くの宝物が集められていたからです。しかし、信春は信玄の命令を無視して敢然と火を放ちました。
命令に背いたことをとがめられた信春は「館を焼かなければ、財宝目立てで信玄公が今川を攻めたといわれることになるでしょう」と信玄に忠言したというエピソードが残っています。
信春のほうが年上だとはいえ、主君に対してこのような振る舞いができるあたり、ただ勇猛なだけの武将ではなかったことがうかがえます。
翌1569年の三増峠の戦いでは先鋒(せんぽう)として北条軍と戦い、1572年の西上作戦では只来城を攻略。三方ヶ原の戦いでは徳川軍を浜松城下まで追い詰めるなど、信春は信玄の下でその能力を遺憾なく発揮し続けました。
信玄亡き後、長篠に散る…
しかし、信春を信頼していた信玄が1573年に死去すると、状況が変わります。信玄の後を継いだ勝頼にとって、実績も実力もある信春は疎ましい存在だったのでしょう。信春は勝頼と反りが合いません。そして迎えたのが、長篠・設楽原の戦いでした。
信玄に仕えてきた信春ら老臣は、織田・徳川軍と比べて武田軍が形勢不利と判断して撤退を進言します。しかし、勝頼は合戦を主張。実際に戦いが始まると、信春らが懸念した通り武田軍は追い込まれていきました。
信春の部隊も討ち死にが続き、兵はどんどん少なくなります。しかし、この時点でも信春はかすり傷1つ負っていなかったといわれています。そして勝頼が撤退を始めたのを確認すると、自分の部隊も退却させました。
ただ、信春は1人で陣に残ります。そして高台に立ち「我を打ち取って手柄にせよ」と敵方に叫びました。敵兵が襲いかかってきた際には刀に手をかけることなく、そのまま討ち死にしました。このさまを見て、織田方から「馬場美濃守手前の働き、比類なし」とたたえられたといわれています。
“不死身”を支えた観察眼と変化への対応
最強軍団といわれた信玄の躍進を侍大将として支え続け、最期を迎えるまで戦場でかすり傷1つ負うことがなかったという信春。こう紹介するととにかく勇猛な武将だったというイメージを持たれるかもしれません。
しかし、信春はただ勇敢で武力に秀でた武将ではありませんでした。信春はこんな言葉を残しています。「武士は豪勇だけではいけない。臆病で味付けする必要がある」。実は、あまたの戦功を上げた信春は、戦いに非常に慎重に臨んだ武将だったのです。
信春が非常に優れていたのは観察眼でした。続けて言葉を引きましょう。
「やりの穂先が上がっている敵は弱く、下がっている敵は強い。敵のやりの長さがそろって見えるのは足軽部隊で、そこに向かうのは利がない。やりの長さが不ぞろいなのは身分のある敵だから、そちらに向かえ」
「兜の吹き返しがうつむいていて、背中の指し物が動揺していないならば、それは剛敵である。そこは避け、弱い敵へ向かってかかれ」
ただ勇ましく敵陣に突っ込んでいってはダメだ。敵をよく観察してから戦いに臨め。これが「臆病で味付けする」の意味だったのではないでしょうか。
そして、信春は次のようにも言っています。
「戦場は千変万化するものだから、かねて決めていたこととは違うことが生ずるものだ。そういうときは、手はずを変えてよく働くようにしなければならない。決めていたことと違うことが起こって狼狽(ろうばい)すると、大なる負になってしまう」
戦場は、状況が刻一刻と変化します。予想とは違った事態も起こります。そうしたときにも狼狽せず、状況をよく観察し、その状況に応じて戦うようにしなければならないということです。
これは、敵を競合者に、戦場をマーケットに置き換えれば現代のビジネスにもそのまま当てはまります。ビジネスで勝つには、まず競合者をよく知り、強み、弱みがどこにあるのかを把握しておかなければならない。さらにマーケットは常に変化するから、予測していなかったことが必ず起こる。そうしたときに狼狽することなく、変化によく対応するようにしなくてはなりません。
「ビジネスは豪勇だけではいけない。臆病で味付けする必要がある」。これが、戦国の世の連戦を無傷でくぐり抜けてきた“不死身の信春”からのメッセージであるように思われます。