熊本城の築城をはじめとして熊本の街づくりに多大な貢献をした清正は、熊本では「せいしょこさん(清正公さん)」として親しまれています。現代人の心もつかんでいる清正は、戦国時代の存命中から人心掌握にたけた人物でした。
清正が“人たらし”だったことを示すエピソードは、数多く伝えられています。例えば関ヶ原の合戦の後、敗れた兵が城に戻ろうとしているのを清正が見つけたときのことです。捕らえて問いただすと、城内にいる母を助けるために忍んできたといいます。これを聞いた清正は兵の縄をほどき、城に入るのを見逃しました。
その兵が関ヶ原での敗戦の様子を語ると、城の中にいた兵たちは落胆して清正に降参します。清正は籠城していた将たちに食禄を与えたので、みな清正に恩を感じ、その後、清正に忠誠を誓うようになったと伝えられています。
こんな逸話もあります。清正の家臣で、「清正十六将」と呼ばれた精鋭の1人に覚兵衛という人物がいました。この覚兵衛が、あるとき次のように語りました。「昔の俺は小心者で、戦場に出てもすぐに逃げ帰っていた。しかしそのたびに清正公は『見事であった』と言ってくれた。そのうちに、このままではいけないと命懸けで戦うようになり、一生を清正公のために尽くそうと心に決めた。今考えれば、最初から清正公にだまされていたのかもしれない」
清正の名言に「上一人の気持ちは、下万人に通ずる」があります。これは朝鮮出兵のとき、敵兵の襲来の恐れがないにもかかわらず、清正が装備を調えているのを見た臣下がその理由を尋ねたのに対して放った言葉です。
いつ何が起こるか分かったものではない。上の者が油断すれば、その油断を部下が感じ、部下も油断する。だから、自分は装備を解かないのだ。リーダーの気持ちを部下が敏感にくみ取ることを、清正はよく理解していました。
また、「使うところはその器に従う」というのもあります。
これも朝鮮出兵時のこと。敵兵と相まみえていたところ、日が暮れたので兵を引き上げることになりました。そこで清正は陣中を見回し、後方に控えていた庄司隼人に引き上げの指揮を命じます。隼人は見事にこの任務を果たしたのですが、涙を流している人物がいました。「自分は、戦功では隼人に負けないつもりだ。なのに、なぜ大事な役目を隼人に命じられたのか。自分は隼人より劣っているのか」というのです。
それを聞いて清正が答えます。「もしも攻めかからなければならない場面であれば、お前に任務を命じたであろう。ただ、兵を引き上げさせるのであれば庄司が適任である。お前たちはみな等しく私の頼りになる家来、腹心である。使うところはその器に従う」。適材適所ということを見事に表したエピソードです。
なぜ、清正はこれほどまでに人の心をつかむのがうまく、人を使うことにたけていたのでしょうか。
清正は晩年「自分は一生の間、人物の判断に心を尽くした」と述べています。清正は、人間を見る目、人の道を理解する力を養い、人間学とでもいうべきものを身に付けようとした人物でした。そのために人相まで勉強したと伝わっています。
人を理解する努力を惜しまなかった
秀吉が世を去った直後、清正や浅野幸長ら秀吉臣下の大名を相手に前田利家が「論語」の章句を語り聞かせたことがありました。これをきっかけに、清正は儒者の藤原惺窩のもとで論語を学び始めます。このことも、清正の人間理解に対する関心の高さを感じさせます。
こうした清正の側面を見てみると、「表と裏、両面の心掛け、どれもおろそかにしてはならじ」という清正の有名な言葉もさまざまな意味を含んでいるように思えてきます。
清正は肥後(現・熊本県)の領主になると、領内に次々と寺を建立していきました。寺の表には桜を、裏手には栗の木を植えます。表の桜は、参拝に来た人を楽しませるため。そして、裏の栗はいざというときの非常食として。これも「表と裏、どれもおろそかにしてはならじ」です。
しかし、人間は外側から見える態度と外からは見えない気持ち、どちらもおろそかにしてはいけないとも受け取れますし、人間には建前と本音があり、そのどちらも軽んじてはいけないというふうにも見えてきます。
ただ、話はこれだけでは終わりません。清正は「自分は一生の間、人物の判断に心を尽くした」と言いましたが、この言葉には続きがあります。「でも、結局はよく分からなかった。ただ言えるのは、誠実な人間に真の勇者が多いということだ」
人間を理解しようとすることは、大切だ。しかし、人間というものはそんな簡単に分かるものではない。このことも、清正の言葉は教えてくれているように思われます。