2020年1月19日から放送が始まったNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。個性あふれるキャスト、色鮮やかな衣装などが評判を呼び、好スタートとなりました。今後1年間、長谷川博己さん演じる主人公の明智光秀がどのようなドラマを見せるのか、注目しましょう。
光秀というと主君の織田信長に対して「本能寺の変」で謀反を起こしたため、逆臣との悪いイメージが強いのですが、それは一面でしかありません。
これから、麒麟がくるでも描かれることになりますが、光秀は秀吉と並ぶ優秀な武将であり、負傷した家臣に見舞いの書状を送り、領国の丹波では治水工事などに力を発揮するなど善政を行い、没した後も「御霊さま」と慕われる名君でした。また歌や茶などを嗜む教養人としても名高く、光秀は文武に秀でた非常に優秀な戦国武将でした。
そんな優秀な光秀の人生は常に順風満帆だったわけではありません。不遇の失業時代もありました。光秀は、1528年(1516年説もあり)に美濃国(現・岐阜県)で生まれました。明智氏は美濃国の守護大名を務めた土岐氏の血筋を引いています。光秀は土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるようになります。
1556年、その道三が息子である斎藤義龍と対立し、長良川の戦いが勃発します。7倍もの軍勢を持つ義龍に攻め立てられ、道三は戦死。光秀も居城の明智城を攻め立てられ、離散の憂き目に遭いました。
主君である道三が亡くなり、領地を失った光秀は失業です。窮した光秀は、母のお牧が越前国(現・福井県)称念寺の末寺・西福庵に縁があったことから、妻の熙子(ひろこ)と子どもを連れて称念寺に身を寄せます。そして門前に寺子屋を開きながら、仕官の機会をうかがいました。
“文”に続き、“武”でもアピール…
そんなある日、越前を治める朝倉義景の家臣と連歌会を催す機会を称念寺の住職が設けます。五七五の上の句と七七の下の句を詠み連ねていく連歌は、当時の武士の重要な教養でした。朝倉家の家臣と連歌会を共にするというのは、朝倉家に接近し、己の能力を示す大チャンスです。
ただ、失業状態の光秀には連歌会を開く資金がありませんでした。妻の熈子が自慢の黒髪を売って費用を用立てるという非常手段でなんとか開催に至ります。そして、称念寺での連歌の会は大成功に終わり、光秀は朝倉義景に取り立てられることになりました。
もちろん、これだけではただ“文”に優れた者として、仕官がかなったにすぎません。戦国の世では“武”にも優れていることを示さなければ出世の機会は少なくなります。そこで光秀がアピールしたのが、砲術(鉄砲術)の腕前でした。
その格好のチャンスが訪れます。光秀に砲術の腕があることを聞きつけた義景から、ある日、それを披露するように命じられたのです。光秀は約45メートル離れた的に100発の弾を撃ち、68発を中心の黒星に命中させて残りの32発も的に当てて見せました。まさに百発百中、当時の鉄砲の性能を考えると驚異的な腕前です。感嘆した義景は、100名の鉄砲隊を光秀の下に付けることにしたといいます。
この逸話は江戸時代に書かれた『明智軍記』に載っているもので、軍記物に付き物の創作や誇張はありそうですが、それでも、義景が光秀の能力を評価したのは確かなようです。その後、義景の側(そば)に仕えるようになり、義景を頼ってきた足利義昭とつながりができ、それが織田信長との縁へと発展するという光秀の出世ぶりからも明らかです。
主君の斎藤道三を失い、困窮し越前に向かった光秀は、寺子屋で細々と生計を立てていました。現代に当てはめると、勤めていた会社が倒産し、妻の生家を頼って引っ越しをしてアルバイトで生計を立てるようなものかもしれません。
しかし、光秀は無為の時を過ごしたわけではありません。称念寺では住職と和歌を詠み、漢詩をつくったといわれています。それが朝倉家家臣と連歌会につながります。称念寺の歴史を遡ると、奈良時代に創建された非常に由緒あるお寺です。足利時代には将軍家祈祷所として栄え、天皇の綸旨(りんじ)も受けて祈願所となり、住職が上人号を勅許されるなど非常に格の高いお寺だったのです。当然、朝倉家の家臣も数多く出入りしていました。
そうした場所で開かれた連歌会で光秀は自分のポテンシャルの高さを見せつけます。連歌は、その場で前の句に継ぐ句を即興で詠みます。センスはもちろん、過去の歌に関する知識、頭の回転の速さが問われます。連歌会といういわば“文”の能力を示す集まりで、光秀は見事にアピールに成功するのです。
称念寺の宗派である時宗は、全国を旅しながら布教を行う遊行を特徴としています。光秀は、越前という場所にいながら、全国の情勢をお坊さんから聞き、情報を蓄えていたとも考えられます。
現在の日本において、失業後、再起して以前以上に活躍するのは、たとえ能力があろうとかなり難しいことも事実です。それを実現する手段として、自分の能力を示すことができる場所(称念寺)を見つけ、機会(連歌会)をつくり、そのチャンスを生かしただけでなく、さらに砲術でもう一段のアピールをした光秀の処世術は、見習うべき点がありそうです。