2020年1月に始まったNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀。その光秀を取り巻く武将も多士済々で個性が光っています。その1人が、吉田鋼太郎さん演じる松永久秀ではないでしょうか。有名武将がそろった戦国時代。久秀はそれほどメジャーな存在ではなく、初めて名前を聞いた方もいるかもしれませんが、戦国時代を代表する武将の1人であることは間違いありません。
久秀には“戦国一の悪人”との評があります。また、日本で初めて爆死を遂げたと伝えられています。そして、あの信長が家康に対して「人が1つとしてなし得ないことを3つ行っている」と紹介したと伝えられています。最近は信長が指摘したとされる行為は、久秀によるものではなかったという説もあるようですが、とにかくエピソードの多い人物です。
生年は、1508年といわれていますがはっきりとはしていません。出自についても分かっておらず、身分の高い出ではなかったようです。当時、阿波国(現・徳島県)の三好長慶が畿内へと勢力を伸ばしていました。そして1533年頃、久秀は右筆(ゆうひつ)として長慶に仕え始めます。右筆というのは、現在の書記のような役職。急成長する企業に途中入社したような形です。
長慶は勢力を増す中で、主君である細川晴元と対立。晴元に反旗を翻します。長慶の軍勢に押された晴元は、12代将軍・足利義晴と義輝の父子と共に近江国(現・滋賀県)に逃亡。京には将軍不在となり、上洛(じょうらく)した長慶が実質的に政権を担うことになりました。久秀は三好家の家宰(かさい)に任命されます。家宰は家長に代わって家政を取り仕切る重責で、政治力を持つことになります。また、京における公家や寺社との交渉の窓口になったのが久秀でした。
対立していた長慶と晴元は和睦し、近江の地で13代将軍となった義輝は1558年に都へ戻ります。そして、久秀は義輝の御供衆(おともしゅう)に任ぜられました。御供衆は、御相伴衆(おしょうばんしゅう)に次いで将軍の近くに仕える役職。御相伴衆には長慶が、同じ御供衆には長慶の嫡男である三好義興が共に就いていたことを見ても、久秀が高く評価されていたことが分かります。
また、久秀は大和国(現・奈良県)を与えられ、信貴山城を自らの居城としました。出自のはっきりしない久秀が、時の実権を握る家を取り仕切り、将軍の側に仕え、一城のあるじとなるというのは、かなりの出世です。中途入社した能力の高いビジネスパーソンが、縁故などとは関係なく上り詰めていったようなものですから、そのさまは立身出世物語として、もっと日本人に好かれてもいいと思われます。
焼き打ち、謀殺、裏切り……“悪人”伝説を生んだ行動…
ただ、ここから「戦国一の悪人」といわれる元となる、久秀の行動が始まります。久秀は三好家に血縁があるわけでもありませんし、代々三好家に仕える家系でもありません。それなのに異例の出世を遂げる久秀に対して、三好家の中では警戒する向きがありました。そんな中、長慶の弟である十河一存、長慶の嫡男の三好義興が相次いで病死します。これが病死ではなく、久秀が毒殺したとの話があります。また、長慶は弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を誅殺(ちゅうさつ)しますが、これは久秀の諫言(かんげん)によるものといわれています。こうした主家への謀略が信長の指摘した“人にはなし得ないこと”の1つ目です。
1564年に長慶が病没。長慶の養子である三好義継が跡を継ぎました。しかし、義継はこの時まだ10代半ば。三好家は、久秀と三好三人衆と呼ばれる重臣が取り仕切ることになりました。翌1565年、三好三人衆が御所を襲撃し、将軍・義輝を暗殺するという大事件が勃発します。久秀は大和にいたため襲撃には加わっていませんが、息子の松永久通が参加していたこともあり、これにも久秀が関与したといわれています。この将軍暗殺が“人にはなし得ないこと”の2つ目です。
義輝を暗殺した三好三人衆は足利義栄を14代将軍に擁立し、自分たちの権力体制を築きながら久秀の力をそぎにかかりました。一方、三好三人衆から軽視される義継は久秀を頼ります。ここに、「三好三人衆・義栄」対「久秀・義継」という対立が生まれました。三好三人衆は、久秀と義継がいる大和国に軍勢を進めます。しかし久秀は東大寺に陣を張っていた三人衆を奇襲。真偽は定かではないのですが、久秀軍が東大寺に火をかけ大仏の頭部や伽藍(がらん)などが焼失したといわれていいます。これが“人にはなし得ない”ことの3つ目です。
東大寺では三人衆を追い払ったものの、久秀は劣勢が続きます。そこで、久秀が目を付けたのが織田信長でした。美濃・尾張を平定して天下統一にまい進する信長は、義輝の弟である足利義昭を擁して上洛。義継の病死を受け、1568年、義昭が15代将軍に就任します。久秀は茶に目がない信長に茶の名器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を献上して歓心を買い、信長の臣下に入ることに成功します。
失業のピンチから一転、勢いのある企業に見事に転職を果たしたようなのですから、この判断と実行力は大したものです。しかし、続く行動が、久秀の評判を落としてしまいます。義昭は将軍である自分を利用するだけかのような信長と不仲になり、各地の武将に働きかけて「信長包囲網」を敷きます。甲斐国(現・山梨県)の武田信玄は西に兵を動かし、三方ヶ原の戦いで信長軍を一蹴。これを見た久秀は、信長を裏切り義昭側に付きます。
しかし、信玄が病没すると武田軍が撤退し、信長包囲網は瓦解。義昭は京から追放され、長慶の後継者だった義継は戦死し、久秀も信長軍に囲まれ、降伏しました。この裏切りは信長に許されますが、これで終わりではありません。1577年、信長軍の一員として本願寺を攻めているその最中、久秀は戦線を離脱して信貴山城に戻ってしまったのです。
信長は息子の信忠を大和に送り、信貴山城を包囲します。久秀も抗戦しますが、戦力の差は明らかで追い詰められます。そして、城に火を放ち自害しました。この時に火薬に火をつけて爆死したとの話がありますが、これは後世につくられた伝説のようです。
優秀で出世はできても、信頼を得られなければ末路は
久秀が有能な人物だったのは間違いないでしょう。頭が切れ、外交力・交渉力があり、そのような素養が三好長慶の下で異例の出世をして要職に就いた要因になったと思われます。また、信長が茶道具だけで人を評価するとは考えにくく、久秀の能力を買ったからこそ臣下に招き入れたり、裏切りを許したりしたと考えるのが妥当です。実際、久秀は戦でも数々の武功を挙げており、それは信長の下でも同じでした。
しかし、一般的には信義がないと思われる行動を繰り返した面があるのは否めません。主家であった三好家と対立して、信長の下に参じたのは時流を読んでのことと見れば単純な裏切りとはいえないかもしれませんが、その信長が劣勢に見えた途端、敵方に身を投じるのは裏切りといわれても仕方がないのではないでしょうか。そして、その裏切りを許した信長に対して、さらに裏切りを重ねたことは、信頼を置けない人物という評価を受けても仕方がないかもしれません。
久秀は、戦だけでなく、茶道などの文化面に関しても非常な才能を見せた人物であり、もっと評価され、広く知られてもいい能力を持った武将でした。しかし、後世の評判や認知度は、その能力に見合ったものといえません。久秀を見ていると、たとえ能力はあっても、信頼という裏付けがなければ、最終的には道が閉ざされるリスクに気付かされます。ビジネス社会でも、いくら能力があったとしても、信頼が置けるという評価がなければ身を滅ぼすことになりかねません。