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公開日:2019.12.24
冬、真っ白な雪を抱く富士山。初夢のおめでたい図柄として年賀状に取り入れる人も多いのではないでしょうか?日本人に親しまれているこの名峰は、古くから信仰の対象となった霊山としての顔も持ちます。江戸時代に隆盛を迎えた富士講の信者たちは、富士山に登る前に山麓の溶岩洞窟で「胎内巡り」をすることで生まれ変わりの体験をしたとか。
その聖地の1つ、船津胎内樹型(ふなつたいないじゅけい)は、江戸時代の姿を現在にとどめ、今でも洞窟巡りをすることができます。今回は富士山麓で神秘的でマニアックなスポット、船津胎内樹型を探検してきました。
船津胎内樹型は富士山の北山麓、富士スバルラインの料金所近くにあります。洞窟入り口は無戸室浅間(むつむろせんげん)神社の社殿の中。紋幕がかかる入り口から暗い洞窟内に進むと、すぐに筋状の模様に覆われた場所にさしかかります。江戸時代には「肋骨」に見立てられたといいますが、私は腸の中を歩いているような不気味さを感じました。
肋骨の空間を過ぎ、少し折り返して「母の胎内」に向かいます。ここは長さが20m、天井の低いとても狭い洞穴です。150㎝ほどの小柄な私でも、さらに小さく身をかがめないと通れず、少しずつしか進めません。そのため、20mよりも長く感じ、閉塞感に襲われました。
その先はさらに狭くなっていて、手を地面に着け、四つん這(ば)いになってやっと通り抜けます。最奥部は行き止まりですが、不思議なことにやや広い空間になっていて、十分に背を伸ばすことができました。まさに「胎内」のようです。ここには富士山の祭神である木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が祭られていました。
江戸時代中期には江戸や房総(千葉)など関東地方はもちろん、全国から多くの信者がここで祈りをささげるためにやって来たそうです。「母の胎内」は子授けや安産の御利益もあるとされ、昔の信者たちは洞窟の最奥部から滴る雫(しずく)を妊婦のために、大切に持ち帰ったとか。
ところで、このような洞穴はどのようにしてできたのでしょうか?船津溶岩樹型は、約1000年前(平安時代)に起こった富士山の噴火によって形成されました。富士山の八合目あたりから流れ出た溶岩がこのあたりまで達し、その圧力で横倒しになった巨木が折り重なったまま溶岩に包まれました。熱で木は燃え尽き、固まった溶岩の中に樹型の空洞ができたのです。
船津胎内樹型は少なくとも5本の大木が組み合わさってできたと考えられています。このような洞穴はこの周辺にいくつもありますが、世界的には大変貴重で国の天然記念物に指定されました。世界文化遺産「富士山」の構成資産としても登録されています。
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執筆=小林 千穂
山岳ライター・編集者。山好きの父の影響で、子どもの頃に山登りをはじめ、里山歩きから海外遠征まで幅広く登山を楽しむ。山小屋従業員、山岳写真家のアシスタントを経て、フリーのライター・編集者として活動。『山と溪谷』など登山専門誌に多数寄稿するほか、『女子の山登り入門』(学研パブリッシング)、『DVD登山ガイド穂高』(山と溪谷社)などの著書がある。現在は山梨で子育てに奮闘中。
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