1984年に開催されたロス五輪の開会式はテレビで見ていて驚いた記憶がある。背中にロケットを背負った通称ロケットマンが、聖火台の下から映画007シリーズのジェームス・ボンドばりに空中へ飛び出すといったアトラクションが用意されていたからだ。映画の都ハリウッドを擁する国で開催される五輪は、なんとも米国的で娯楽色が強いと感心させられた。
競技が始まると、母国開催ということもあり、いつもの大会に比べても米国選手の活躍が見る者を楽しませてくれた印象がある。その筆頭は陸上競技のカール・ルイス選手だろう。
100m、200m、走り幅跳び、400mリレーで次々と金メダルを獲得した。競技を前にしたカール・ルイスは、「世界記録を狙うか?」という記者の質問に次のように答えている。
まず何より金メダルです。一度しかないチャンスですからね。記録を破るチャンスはいくらでもあります。でも、メダル獲得のチャンスは今回だけです
(カール・ルイス アマチュア神話への挑戦 カール・ルイス、ジェフリー・マークス共著 山際淳司翻訳)
4つのオリンピックで10個のオリンピックメダル
その言葉通り、カール・ルイスは金メダルを取った。しかもエントリーした4種目のすべてで金メダルを獲得してみせたのだ。
しかし、メダル獲得のチャンスは今回だけ、というのは自身への過小評価だったようだ。4年後のソウル五輪でも100mと走り幅跳びの金メダル2個、200mで銀メダル1個を獲得。次のバルセロナ五輪では、走り幅跳び、400mリレー2個の金メダル。さらに96年のアトランタ五輪でも走り幅跳びで金メダルを獲得することになるからだ。
それにしても、と今更ながらに思う。いくつもの競技でいくつものメダルを取ることは素晴らしいが、そのために他のアスリートの何倍もの練習をこなすことになるのだろう。けがをするリスクも高くなる。二兎ならぬ、三兎、四兎を追うことはかなりのむちゃだったのではないだろうか?
短距離にも強い、幅跳び選手をめざして…
カールの陸上人生は砂場でスタートした。両親は共に元陸上選手で、教師をする傍ら地元で陸上クラブを創設した。そのクラブの走り幅跳び用の砂場で妹と遊んでいたカール少年は、いつしか砂で城を作ったり、壊したりする遊びよりも、走り幅跳びの練習に楽しさを見いだすようになっていく。走ることも跳ぶことも好きだった少年は、それを同時にできる走り幅跳びが気に入ったのだ。
ある日、彼はメジャーを持ち出して前庭に行き、当時の走り幅跳びの世界記録29フィート2.5インチ(8m90㎝)を測ってみたという。
「うわあ、キャディラックより長いや」
庭に示された世界記録に目を丸くしたカール少年は、その記録に向け、1インチ、2インチと近づくようにアスリートとして成長していった。小柄だったカールの身長がハイスクール時代にグングン伸び始めると、走り幅跳び、そしてスプリントの記録は本人も驚くほど伸び、全米で注目されるようになった。ヒューストン大学に入学後、カールはコーチから「お前はいい走りをする。だが、まずは幅跳びだ」と言われたと自伝に記している。カール自身も、自分は走り幅跳びの選手であり、スプリントは二の次だと考えていた。
カールはコーチの勧めで、1年かけて走り幅跳びのフォーム変更に取り組み、苦労の末に新しいフォームを会得した。そうして満を持してスプリントの練習に集中して取り組んだカールは、自らが望んだスタイルであるスプリントにも強いジャンパーとして私たちの前に現れたのだ。そして、オリンピック4大会にわたり、4つの種目でメダルを獲得するという規格外の記録を打ち立てた。
規格外の人材にブレーキをかけず、後押しする
カール・ルイスは才能にあふれ、なおかつ多才な人材だ。私たちの暮らす一般社会に彼のような優れた人材が現れた場合、どのように処遇するべきなのだろう。
例えば営業で優秀な成績を上げながら、経営企画、新規事業の立案など新たな分野への挑戦意欲にあふれる人材だ。ここで思い出されるのが、サントリーの創業者である鳥井信治郎氏の言葉であり、今もサントリーの企業理念の1つとして掲げられる「やってみなはれ」の精神だ。
その人材の意欲や力量を見極めながら、経営者や管理職として抱く不安をグッと飲み込み、「やってみなはれ」と人材の背中を押してあげる。その後のビジネスの成果もさることながら、その後の成長も大いに楽しみにできるのではないだろうか。「出るくいは打たれる」ということわざもあるように、日本ではとかく規格外の人物の行動にブレーキをかけがちだ。そうではなく積極的に後押ししなければ、カールのように驚異的な成果は生まれることはない。
カールが最後に獲得したアトランタ五輪の金メダルは走り幅跳びによるものだった。ロサンゼルス五輪で陸上4冠を達成したカールは、この優勝によって個人種目4連覇も達成した。
カールの残した走り幅跳びの公認記録は8歳の頃に憧れた世界記録8m90㎝を超えていない。しかし、カール少年がフルサイズのキャディラックでも比べ物にならないくらい大きな飛躍を遂げたことを世界中の多くの人が知っているだろう。
追記:1991年に東京で開催された世界陸上でリポーターを務めたミスターこと長嶋茂雄氏がカール・ルイス氏に「ヘイ、カール!」と声をかけ、カール・ルイス氏もこれに笑顔で応えたというエピソードに触発され、本コラムでは「カール」と親しみを込めて表記させていただいた。