ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2020.10.22
2020年8月、9月、世界を舞台に闘う日本人レーシングドライバーの活躍を報じるビッグニュースが飛び込んできた。
まず、8月23日に米国で開催された世界3大レースの1つ、インディカー・シリーズ第7戦の第104回インディアナポリス500マイルレース(通称インディ500)で佐藤琢磨選手が日本人選手初の快挙となった2017年の優勝に続き2度目の優勝を果たした。
そして9月19~20日にフランスで開催された同じく世界3大レースの1つに数えられる第88回ル・マン24時間レースでは中嶋一貴選手、セバスチャン・ブエミ選手、ブレンドン・ハートレー選手が駆るトヨタ8号車が1位でチェッカーフラグを受けた。中嶋一貴選手にとっては、実に3年連続のル・マン総合優勝である。
1980年代後半から90年代にかけてのF1ブームを背景にモータースポーツ全体の注目度が高まり、インディカー・シリーズやル・マンに象徴される世界耐久レースのファンも急増したが、それぞれのカテゴリーの頂点とされるレースで日本人ドライバーが次々と優勝する日が来ることを一体どれだけの人が想像したことだろう。
今回はその2人のうち、佐藤琢磨選手を取り上げたい。琢磨選手の驚異的なキャリアアップに興味を引かれたからだ。
レーシングドライバーは、子ども時代にレーシングカートを始め、ステップアップしていくのが普通だ。アイルトン・セナしかり、ミハエル・シューマッハしかり。日本人初のF1ドライバーである中嶋悟氏を父に持つ中嶋一貴選手も同様で、12歳の時にはカートレースに初参戦している。
それに対して琢磨選手がカートを始めたのは早稲田大学人間科学部の学生だった19歳の時。大学生が卒業後の進路をそろそろ考え始める時期に、彼はまったくの未経験者として自動車レースの世界に身を投じるのだ。いわばスターティンググリッドの最後尾からレーシングドライバーとしてのキャリアをスタートさせたといってもいいだろう。それにもかかわらず、わずか6年後の2002年には当時の目標であったF1のレギュラーシートを獲得したのである。
生まれて初めて生で見るF1。その空気を切り裂くようなスピード感と、身体が震えるほどのエグゾーストノートは、10歳の少年に強烈な印象を与えた
(GO FOR IT! 佐藤琢磨著)
自身の著書で琢磨選手は、1987年に日本で開催されたF1日本グランプリを鈴鹿サーキットで観戦した時のことをそのように振り返っている。レースキャリアをスタートさせたのは遅かったが、子ども時代に抱いたレースへの憧れは消えることがなかった。その青年が、ホンダと鈴鹿サーキットがレーシングスクールである鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-Formula)を開設したことを知る。
それがスタートの合図だった。同スクールに年齢制限ギリギリで応募。10倍の難関をくぐりぬけて合格し、主席で卒業。卒業後は全日本F3選手権(日本で開催されているフォーミュラカーレースの下位カテゴリー)に参戦するも、シーズン半ばに渡英し、若手ドライバーの登竜門であるジュニア・フォーミュラ参戦を経て、イギリスF3選手権にフル参戦。2001年には日本人初となるイギリスF3選手権チャンピオン獲得を足掛かりにF1へのステップアップを実現させた。
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執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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