仙石秀久(せんごく・ひでひさ、1552~1614年)という武将をご存じですか。戦国時代の英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、初代小諸藩主として生涯を閉じた武将です。従来、秀久の名前が記憶に残るとしたら、盗賊、石川五右衛門を伏見城で捕縛したというエピソードでしょうか。この話にしても主人公はあくまでも石川五右衛門で、秀久は脇役です。
しかし、近年、若者の間でかなり有名になりつつあります。それというのも、青年向け漫画雑誌で、秀久を主人公にした作品が連載され、人気を博しているからです。その中で、秀久は「戦国史上、最も失敗しそれを挽回した男」として描かれています。
スピード出世から一転、改易・追放のジェットコースター人生
現在、日本のビジネス社会では、失敗するとなかなか次のチャンスが与えられず、起業の妨げとなっているともいわれます。戦国時代も同様で、信賞必罰という言葉通り、手柄を立てれば領地などが与えられる一方、戦いでミスを犯せばその責任を問われ、処分されることになります。こうして表舞台から姿を消した武将は少なくありません。
処分方法の一つに、「改易(かいえき)」があります。改易とは、もともとは律令(りつりょう)制で官職を解き、他の者を任命する手続きのことでしたが、その後、大名の領地を没収し身分をはく奪する処分を指すようになりました。切腹には至らないまでも、相当厳しい処分だといえます。そんな厳しい処分を受けながら、挽回を果たしたのが秀久なのです。…
仙石秀久は1552年、美濃国(現在の岐阜県の一部)の豪族・仙石久盛の四男として生まれました。しかし兄弟が相次いで亡くなり、急きょ家督を継ぐことになりました。若くして織田信長に気に入られ、その後、豊臣秀吉の配下に入ります。数々の戦いを勝ち抜き、出世の階段を駆け上がり、ついに1585年、秀吉の四国攻めの論功行賞によって10万石の讃岐の国を与えられ、秀久は有力大名に上り詰めます。これは当時、異例ともいえるスピード出世でした。
しかし、続く九州攻めの際、本隊到着までは持久戦に徹せよという秀吉の命令に背き、独断で先陣部隊だけでの攻勢をかけてしまうという失敗を犯します。その結果、秀吉側が大敗。しかも先に四国に逃げ帰る始末です。こうしたことが、秀吉の怒りを買い、讃岐の国を取り上げられた上(改易)、自身は高野山に追放されてしまいました。
諦めず復活、大名として生涯を終える
そして諸説ありますが臥薪嘗胆すること、約4年。1590年に小田原征伐が始まると、故郷の美濃の国で部下を集めて秀吉の下に馳せ参じます。徳川家康の支援を受けて、敵を引きつけるために鈴を陣羽織に縫いつけて参戦。伊豆山中城攻めでは先陣を務め、小田原城早川口攻めでは抜群の功績を上げました。
こうした活躍により秀吉から信濃小諸(現在の長野県小諸市)5万石を与えられ、秀吉重臣の大名として見事に復活を遂げました。ちなみに秀久の活躍ぶりから、箱根の仙石原の地名がつけられたともいわれています。秀吉亡き後、小田原城攻めで協力した徳川家康につき、関ヶ原の合戦では秀忠を支援しました。
そうしたつながりによって、秀忠の信頼も厚く、豊臣恩顧の外様大名としてはかなりの厚遇を受けました。小諸藩主となった秀久は熱心に領地の開拓や整備に取り組み、また小諸城の大改修にも着手し、二之丸、黒門、大手門を建造。秀久が作った城下町は、現在の小諸の基となっています。
さて、この秀久の生涯をみなさんはどう受け止めるでしょうか。人生やビジネスで失敗や不遇、逆境はつきものです。その失意のどん底でも諦めないことが大切だと、秀久のエピソードは示しているように思います。
実際、どん底ともいえる状況からはい上がってきた著名経営者もいます。最近のベンチャー経営者でいえば、インターネットQ&Aサイト「OKWave」を運営するオウケイウェイヴ創業者の兼元謙任さんもその一人です。兼元さんには、ある事情から2年間ホームレス生活を経験しています。公園のトイレで壁のコンセントから電源をとり、ノートパソコンでWebデザインの仕事をしていたといいます。そしてそれが現在のビジネスにもつながっているのだそうです。
経営の神様・松下幸之助さんは、成功の秘訣を問われる度、「諦めないこと」と答えています。そんなことは分かっていると言われそうですが、実はなかなかできないものです。秀久の鮮やかな復活劇を思い浮かべて、いざというときの糧にしたいものです。