戦国時代の名武将といえば、まずは戦(いくさ)に強く、部下の統率に優れているイメージがあります。しかし、彼らの多くは、こうした猛々(たけだけ)しさだけでなく、教養も一流でした。身分の高い武家に生まれた人間は高度な教育を施されるのが一般的だったからです。
例えば伊達政宗のケースを見てみましょう。奥州(現・東北地方)の大名だった伊達氏は、鎌倉時代から続く武士の名門です。政宗の父である伊達輝宗は、長男の政宗が生まれると英才教育を施すことを決めます。
そこで招聘(しょうへい/礼を持って招くこと)したのが、甲斐国(現・山梨県)の僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)でした。輝宗の叔父である東昌寺住職・大有康甫(だいゆう こうほ)が虎哉と親交があり、すでに名高い学僧として知られていた虎哉を招くことにしたのです。
米沢の資福寺の住職となった虎哉は、教育係として政宗につきます。4年間と決して長くない期間でしたが、政宗の人格形成に大きな影響を与え、政宗が武将として名を上げてからも折に触れて力になります。
小田原征伐に駆け付けるのが遅れたことを政宗が豊臣秀吉にわびるとき、白装束で覚悟を示すようにと進言したのも虎哉だといわれています。また、輝宗は、政宗の槍術(そうじゅつ)の師範として岡野春時をつけ、儒学の師として相田康安をつけ、息子の教育に力を入れます。こうした教育の末、生まれたのが奥州の覇者・独眼竜政宗でした。
信長も僧侶からの教育を受けた…
虎哉の例で分かるように、当時は僧侶が武家の教育係を務めることが少なくありませんでした。上杉謙信は林泉寺という寺に預けられ、天室光育(てんしつ こういく)という禅僧に教えを受けています。上杉景勝、直江兼続は北高全祝(ほっこう ぜんしゅく)という禅僧から学んでいます。
僧侶から学んだのは、天下人・織田信長も同じでした。信長の父・織田信秀に仕えていた平手政秀は、美濃国(現・岐阜県)にある大宝寺の住職・沢彦宗恩(たくげん そうおん)に信長の教育を依頼します。そして、信長が長じてからは参謀として支えました。
信長は美濃を統一した後、「天下布武」という印章を使うようになり、天下統一への意志を明確にしますが、この言葉を信長に授けたのも沢彦だといわれています。
当時、武将が受けていた教育はどのようなものだったのでしょうか。もちろん武将によって違いはありますが、一般的な内容を見てみましょう。
常識から中国古典、日本の古典まで幅広く
まず「往来物(おうらいもの)」と呼ばれる、現代の教科書に相当する書物を学びました。当時、その教材として武家で多く使われていたのが『庭訓往来(ていきんおうらい)』。健康・食事の基本、法会の式次第から武具の基礎知識、領地経営、司法制度まで、武士としてわきまえておくべき常識的な事項を、この本を通じて広く覚えました。
中国の古典も勉強の対象です。『論語』『孟子』などの四書、『易経』『詩経』などの五経、兵法書の『六韜』といった書物を通じて人の上に立つ者の心得、兵法を学びます。さらに、『古今集』『万葉集』『源氏物語』といった日本の古典にも触れることが珍しくなかったようです。こうした幅広い教材が、当時の武将の教養を高めたのです。
将来、軍を率いることになる人物が、軍略、兵法といった戦で必要とされる教養だけでなく、幅広い領域の教養に接していたことはやはり注目に値すると思います。
なぜ、武将が多くの人間を率いることができたのか。なぜ、武将が領地経営でも力を発揮したのか。なぜ、武将が現代にも通じる名言を多く残せたのか。これらの理由の一端は、彼らが受けていた高いレベルかつ幅広い教育にあるように思われます。
現在のビジネスパーソンの多くは、小学校から大学の教育を受けています。しかし、そこで身に付ける教養は、教育水準から見れば一般的なレベルということになります。戦国武将のように、一般的なレベルを超える教養を学ぶのは、あくまで自らの努力が欠かせません。
ビジネスの知識だけでなく、こうした幅広い高い教養があってこそ、人間としての厚みが生まれます。そして、それがなくては、多くの部下をまとめ、チームとして機能させることのできる人材と評価されません。こうした教養の重要さは、戦国の一流武将から学べる教訓です。