ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2018.02.27
現代のプロ野球で名投手コーチとして必ず名前が挙がるのは、東北楽天イーグルスの1軍投手コーチである佐藤義則(さとうよしのり)氏だ。阪神、日本ハム、楽天、ソフトバンクで投手コーチを務め、そのすべての球団で優勝を経験している。その間にダルビッシュ有、田中将大などの超一流投手を育て、信頼を得たことでも知られている。
佐藤氏は現役時代、息の長い活躍をした選手だった。大学を卒業した1977年にドラフト1位で阪急ブレーブス(現・オリックス・バッファローズ)に入団すると、その年に新人賞。1985年には最多勝、1986年に最優秀防御率を獲得した。
その後、所属球団の名称が阪急ブレーブスから、オリックス・ブレーブス、オリックス・ブルーウェーブへと変わり、本拠地は西宮球場からグリーンスタジアム神戸へと移転した。1995年には、本拠地を置いた兵庫が、阪神・淡路大震災で壊滅的被害を受けた中で、当時の日本プロ野球史上最年長・史上初となる40歳以上でノーヒットノーランを達成。オリックスの11年ぶり(前身の阪急時代を含む)のリーグ優勝に貢献した。
21年の現役生活を送った佐藤氏は44歳で引退。通算成績は165勝137敗、防御率3.97。引退まで時速140km台の速球を投げた衰え知らずの投手だった。
佐藤氏は、相手が監督であれ、ベテラン選手やスター選手であれ、はっきりものを言い、叱ることを厭わない。それは「自信と裏付け」があるからだ。これは、選手時代にコーチの指導によって壁を乗り越え、長く現役を続けることができた経験に基づいている。
佐藤氏はデビューで新人王を獲得した後も、2年連続2桁勝利を残すなど、2年目のジンクスをものともしない活躍を続けた。だが、4年目のシーズンに転機が訪れる。4勝と伸び悩んだのだ。そんな時、佐藤氏は当時の投手コーチである梶本隆夫氏から「もう一度やり直さないか」と声をかけられた。「オフは休みなしでやろう」と、フォームを作り直したのだ。
連日の投げ込みで疲れ、体力の消耗はピークに達した。だが、ムダな力が抜けたおかげで自然体に近いフォームが出来上がったという。「中途半端が一番ダメ。一度徹底的に体に覚えさせれば休んでも体が覚えている」と振り返る。
佐藤氏はその後、1年をケガで棒に振ったものの、休んでも体が覚えているのを立証するかのように1984年に17勝を挙げて復活を遂げた。この経験が糧となり、44歳まで現役を続けられたという。コーチとしての自信もこのエピソードに裏付けられ、ダルビッシュ投手や田中投手へ行った投球フォームの指導の裏付けとなっている。
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執筆=峯 英一郎(studio woofoo)
ライター・キャリア&ITコンサルタント。IT企業から独立後、キャリア開発のセミナーやコンサルティング、さまざまな分野・ポジションで活躍するビジネス・パーソンや企業を取材・執筆するなどメディア制作を行う。IT分野のコンサルティングや執筆にも注力している。
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