ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
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公開日:2019.10.24
1987年5月26日、火曜日。モナコの市街地モンテカルロを自転車で走るF1(フォーミュラー・ワン)参戦1年目のレーシングドライバー中嶋悟さんの姿があった。
翌日の水曜日には公道が閉鎖され、街の一部がそのままシリーズ第4戦モナコGPのコースとなる。他のサーキットのようにテスト走行ができないため、ドライバーは下見によってコースの状況を把握し、レース戦略を組み立てるしかない。ヨーロッパでのレース経験もある中嶋さんだが、モナコを走るのは初めてだった。
自転車でコースを回る中嶋さんは、美しいコバルトブルーの海に目を向ける余裕もなかっただろう。下見を終えた中嶋さんは、モータスポーツ・ジャーナリストの今宮純氏にコースの印象を聞かれ、次のように答えている。
「とんでもないね、こんなところでレースするなんて。それがすべてだよ」
(『ミスターF-1 中嶋悟の20年』今宮純著)
モナコのコースは、鈴鹿サーキットや富士スピードウェイなどとは異なり、エスケープゾーンは設けられていない。ドライバーは、狭いコースを周囲のガードレールに接触しないように注意を配りながら、モンスターマシンをコントロールしなければならないのだ。
予選の結果、ウイリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルが1分23秒039でポールポジションを獲得。2位には同じロータス・ホンダのアイルトン・セナが1分23秒711のタイムで続いた。中嶋さんのタイムは1分28秒890で予選17位。同じマシンに乗るアイルトンとの5秒差は中嶋さんにとってきつかっただろう。数字だけで見れば、レースの前半わずか20周足らずで周回遅れにされてしまうことを意味するタイム差だからだ。
中嶋さんは84年から86年にかけて日本国内のF2シリーズのチャンピオンを総なめにしていた。速さは別格だった。F1デビュー後も開幕戦で7位完走、続いて6位、5位と上々の出だしだった。
それだけに中嶋さん本人はもちろん、彼を応援する日本のファンが驚き、日本国内のレースとF1が別モノだったと思い知らされたのが87年のモナコGPだったのではないだろうか。
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執筆=藤本 信治(オフィス・グレン)
ライター。
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