ハワイ・オアフ島のハイスクールで、アメリカンフットボールをはじめ、さまざまなスポーツを楽しみ、また弁護士を目指して熱心に勉強に取り組んでいたサレバ・ファウリ・アティサノエ青年の人生は、アルバイト先のホテルで出会った一人により大きく変わることになった。
その人物とは、ハワイ・マウイ島出身の力士である当時の高見山関だ。サレバ青年の恵まれた体格に着目した高見山関は、相撲というスポーツ、大相撲のシステムなどを紹介した上で、お金は必要ない、体ひとつで日本に来ればいい。力士として強くなれば相応の収入がついて来るからと誘ったのである。
小錦さんの両親はとても教育熱心で、子どもたちに立派な教育を受けさせることを無上の喜びとしていた。それにしても両親と10人兄弟姉妹という大家族。父親は寝る間も惜しんで仕事をしていたそうだが、家計は楽ではない。自分が大学に進学すれば負担が大きくなる。小錦さんは力士としてお金を稼ぎ、少しでも両親を助けたいという思いで角界入りを決断する。
そして1982年6月、荷物はパンツ、アロハシャツ、バイブル、家族の写真、そして両親が持たせてくれた現金5000円が入った小さなバッグ1つという、まさに体ひとつで来日した彼は、小錦八十吉として相撲人生をスタートさせた。
来日当初、小錦さんが一番困ったのは、初めて食べるちゃんこ料理ではなく、言葉でもなく、実はまわしを締めることだったという。おしりがむき出しになってしまう姿に抵抗があったのだ。
しかし、肝心の相撲のほうではまわしに慣れる前から頭角を現し、初土俵からわずか1年半、1983年の九州場所で早くも十両昇進を果たした。これは1958年に大相撲が年6場所になってから3番目のスピード出世である。
その出世を支えたのが、師匠の高砂親方にたたき込まれた相手をプッシュ、プッシュで攻めぬく押し一辺倒の相撲だった。勝つ喜びを味わうために、そして勝って稼いだお金をハワイに送金するために、小錦さんは一心にプッシュした。翌1984年の秋場所で千代の富士、隆の里の両横綱を倒す大金星を挙げ、小錦の名は広く知れ渡った。
そして1987年5月の夏場所でついに外国人力士として初の大関昇進を果たす。しかし、そうした活躍の一方で小錦さんはケガで苦しんだ。押し相撲は全力でぶつかり相手を吹っ飛ばすか、吹っ飛ばされるかという激しい取り口だ。必然的にケガをする確率は高くなる。小錦さんはヒザや腰の故障で本場所休場を余儀なくされ、また稽古もできないために体重が増え、ヒザや腰への負担がさらに増すという悪循環にさいなまれた。そして大関の座を39場所守った小錦さんは、3度の幕内優勝という輝かしい実績を残し、大関から陥落した。
人柄が伝わるコミュニケーションの大切さ
小錦さんが大関から陥落した時点で引退していても不思議ではなかった。しかし彼は土俵際で踏みとどまった。そして現役を続けたからこそ相撲に対する思いが変わったと振り返っている。
「平幕に落ち、これからはもうお金や地位を守るためではなく、自分のために相撲を取ろうと決心したとき、ボクはそれまで知らなかった相撲のおもしろさや楽しさを体中で感じました」
(はだかの小錦より)
そうした気持ちの変化が立ち合いで観客にも伝わったのかもしれない。「小錦、頑張れ!」という温かい声援が増えた。
また日本語が堪能になるにつれて、土俵外でのアメリカ人らしいユーモアに富んだ発言が好感度を高めたという印象がある。あるインタビューで、立ち合いのときに斜めに構える理由を質問された小錦さんは「それは腹が邪魔だからだよ」と答えた。また「はだかの小錦」にもハワイ時代の暮らしを紹介する次のような一節がある。「ボクは、この体つきから想像してもわかるようにスクスク、伸び伸びと育った。育ち過ぎた、という人もいるけど」。
こうした言葉に表れるアメリカ的なユーモア、そのユーモアが内包する知性やフランクさ、寛容さが人々に伝わり、小錦さんのファン層を厚くしたように思える。
ビジネスシーンでは相手とのコミュニケーションが重要になることは言うまでもない。その際に事実を正確に伝えることはもちろん、自分の人柄を理解してもらえるように、小錦さんのように時にはユーモアを交えて話そうと意識することも大切だろう。これにより相手とのより良好な関係作りが期待できるのではないだろうか。
1997年の11月場所で現役引退した後、小錦さんは人気を背景にミュージシャンやタレントとしてCMやテレビ、映画で広く活躍していることは多くの方がご存じだろう。また同年に設立した「KONISHIKI基金」では、両親から受けた愛情に報いるように、ハワイの子どもたちの就学援助を行っているという。
減量によって、小錦さんの体重は現役時代の約半分になったそうだ。でも、その存在の大きさは今も変わらない。