ポッキーを販売する江崎グリコは、1922年の創業。菓子の種類がまだ限られていた時代、キャラメルの「グリコ」やビスケットの「ビスコ」といった人気商品を発売し、業績を伸ばしました。
戦後を迎え、世の中の菓子の種類が多様化すると他の菓子メーカーとの競争が激化します。江崎グリコも1950年代から60年代初頭にかけて次々に新商品を開発しますが、大ヒットとまではいきません。そこで、創業社長である江崎利一が「他社の強力な商品とまともに競争してはならない。差別的優位性を持った製品を開発すること」と号令をかけます。狙ったのは、10年のライフサイクルを持ち、年間の売り上げが10億円に達する基幹製品の開発です。
その頃、江崎グリコが発売した商品に「バタープリッツ」がありました。1963年に販売を開始したバタープリッツは、ドイツでおつまみとして親しまれているプレッツェルにヒントを得たスティック状のスナック菓子です。子どもからも大人からも人気を集めていました。
当時、日本の菓子市場の中で、チョコレートといえば板チョコが全盛期となっていました。一方、欧米ではすでにライトなチョコレート菓子が人気となっており、日本でも手軽に楽しめるチョコレート菓子が求められる可能性がありました。
そこで、出てきたのが「プリッツにチョコレートをかける」というアイデアでした。手でつまんで食べる新しいタイプの菓子として人気を博していたプリッツにチョコレートをかけ、手軽に楽しめるチョコレート菓子にすればいいのではないかというわけです。
プリッツ全体をチョコレートでコーティングし、銀紙に包む。これが、開発の初期に社内で共有されていた商品形態でした。チョコレートは銀紙に包むものというのが常識になっており、新しい商品の開発においてもそのイメージが踏襲されていたのです。
銀紙で包まないと、チョコレートが溶けて手が汚れてしまいます。しかし、それでは他社のチョコレート菓子に対して大きな差別化は図れません。試作品を前に、アイデアを練る日々が続きました。
そんな中、開発担当者が「プリッツ全体にチョコをかけなくてもいいのではないか」と思い付きます。これは大きな発想の転換でした。プリッツ全体を覆っていたチョコレートを、8分目まで、7分目まで……と、割合を少なくしていきます。大阪名物の串カツをソースに漬けるときのような感覚です。
チョコレートを付けずに残す長さとしては、約2センチが適切でした。こうすると、プリッツと同じように手で持って食べることができ、チョコレート菓子としては画期的です。しかも手が汚れることはありません。
子どものおやつの適量値から1箱40本入りとし、1966年に地域限定でテスト販売を開始しました。1箱の価格は60円で、商品名は「チョコテック」。商品形態のスティックと、テクテク歩きながら食べられるチョコレートスナックであることをかけたネーミングです。
テスト販売は大成功に終わり、本格発売に向けて動き出します。しかし、商品名を考え直さなくてはならなくなりました。「チョコテック」という名前は、他社がすでに商標登録していたのです。そこで目を付けたのが、新しく開発したチョコレート菓子を食べるときの音。「ポッキン、ポッキン」という音から「ポッキー」という名前が生まれました。
2年目には30億円以上を売り上げ、バリエーションを増やす
1968年、ポッキーは全国発売を開始。すぐに人気を集め、2年目には30億円以上を売り上げるほどの大ヒット商品となります。その後、定番の「ポッキー」を軸にしながら「アーモンドポッキー」「いちごポッキー」などバリエーションを増やし、幅広い層に愛される商品になったのはご存じの通りです。
ポッキーは根元にチョコレートが付いておらず、手で持って食べることができることを私たちは知っています。しかし開発の初期段階においてはスティックの全体がチョコレートでコーティングされており、そのイメージが社内で常識化して離れられないでいました。そこから「全体をチョコレートで覆わない」と発想を見事に転換したことが、大ロングセラーであるポッキーを生む原動力になりました。
私たちは、「これが当たり前だ」という前提条件を無意識のうちにつくり上げ、常識化する心理的なクセを持っています。日常生活を営むためには、また日常業務を進めるためには、こうした無意識の常識化は欠かせないものです。
しかし、商品開発など新たな発想が求められるシチュエーションでは、こうした無意識の常識化は険しい道に入り込む原因になり得ます。無意識に常識としていることから離れてみる。そのことの大切さを、ポッキーの開発から見ることができるのではないでしょうか。