時代劇ファンだけでなく、幅広い視聴者の支持を集めてついにクライマックスを迎えた、NHK大河ドラマ『真田丸』。真田信繁(幸村)、豊臣秀吉、徳川家康といった有名武将のみならず、さまざまな武将が個性豊かに活躍し、ドラマに華を添えていました。
豊臣家の重臣として終盤に活躍した「大野修理」こと大野治長も、そんな武将の1人です。今回は、三谷幸喜作品の名脇役として知られる今井朋彦さんがキラリと光る演技を見せた大野治長(1569〜1615)にスポットを当てます。
大野治長は1569年生まれ。丹後国大野(現在の京都府京丹後市)の出身との説が有力です。父は豊臣家家臣の大野定長、母は秀吉の側室・淀殿(茶々)の乳母を務めた大蔵卿局。つまり、治長と淀殿は乳兄弟ということになります。
ちなみに、生年が1567年(1570年とも)の真田信繁とほぼ同い年であり、2人とも1615年の大坂夏の陣で亡くなっているので、同時代に一生を過ごしたことになります。
治長は、秀吉の親衛隊に当たる馬廻衆を振り出しに出世をしていきました。1589年には、20歳の若さで1万石の大名として警固番二番隊長となり、1591年には秀吉のお供で東海地方に鷹狩りへ出掛けたという記録が残っています。
一部では「無能」との評価もある治長ですが、秀吉・秀頼と豊臣家二代に重用されたところから考えるとかなり頭の切れた人物と見るべきではないでしょうか。風流人の一面もあったようで、千利休の高弟・古田織部に茶道を習い、本願寺の顕如が開いた茶会にも招かれています。官位は従四位下修理大夫なので、「大野修理」の通称が生まれました。
1598年に秀吉が亡くなり、その正室・北政所(ねね)が大坂城を去ると、淀殿の信頼厚い母・大蔵卿局と共に治長は豊臣家で権勢を振るうようになります。しかし、その後、人生は決して平たんなものではありませんでした。
1599年には、徳川家康暗殺計画の首謀者の1人として罪を問われ、下総国(現在の千葉県北部)へ配流。翌年の関ヶ原の戦いでは家康側の東軍(家康側)に付き、戦功を上げたことで家康から謀反の罪を許され、豊臣家に帰ることになります。
秀頼の側近であった片桐且元が、方広寺鐘銘事件の処理を誤るなどして大坂城から追放されると、治長は権勢を回復します。徳川との開戦機運が高まる城内で秀頼のそばに仕え、浪人たちの武士団、大蔵卿局、信長の弟・織田有楽斎といったひとクセもふたクセもある者たちを相手に、意見の取りまとめ役として存在感を見せます。
1614年に始まった大坂冬の陣で治長は、強固な大坂城に立てこもり、徳川勢が疲弊するのを待って和平に持ち込む作戦を主張します。一方、真田信繁、後藤又兵衛らの浪人ばかりでなく、実の弟・大野治房らも、城を出て家康軍と一戦交えることを要求しました。
ただ、寄せ集めの浪人たちに頼らざるをえない豊臣軍は決してまとまりがいいとはいえません。しっかりとした連携が必要な野戦ではまともに戦えるかは疑問です。もし、そこで大敗すれば和平交渉どころではなくなってしまう――このように治長たち籠城派は考えたのではないでしょうか。そして、最終的には、籠城策が採用され、防御を固めるため、城の周辺に真田丸などいくつものとりでが築かれ、戦となりました。
豊臣家の終焉(しゅうえん)と運命を共にした治長
その後、治長たちの狙い通り、1度は和平交渉が成立します。冬の陣の後に家康と和議が結ばれたのです。治長も次男の大野治安を人質に差し出すなど和平工作に尽力しました。その結果、豊臣家の安泰も成ったかのように見えました。
しかし、1615年に入って、家康が大坂城の外堀と内堀を共に埋めてしまうと状況は一変しました。治長は和平作戦の失敗を非難され、発言力を失ってしまいます。夏の陣が勃発すると、城を丸裸にされた豊臣側に、もはや勝機はありませんでした。勝敗が決定的になると治長は、自らの命と引き換えに秀頼母子の助命を家康に嘆願します。しかし聞き入れられず、治長は秀頼、淀殿、大蔵卿局らとともに大坂城内で自決しました。
守るべきか、攻めるべきか―治長の苦渋の判断
過去を振り返ると、「あの時、もし他の行動を取っていれば……」とはよく考えます。大坂の陣についても、豊臣側が籠城策を取らずに最初から野戦に打って出ていれば結果は変わっていたはず、という指摘もあります。この意見が「治長無能説」の一因とでしょう。
しかし、治長の主張は理がないことだったのでしょうか。父の代から豊臣家に仕えてきた治長は、豊臣家の存亡を第一に考えていたはずです。一方、この時大坂城に集まっていた中には、行き場をなくし、報奨や出世を目当てにする浪人もかなり含まれていたようです。治長としては、彼らの力を信じ切ることは非常に難しく、安全策に傾くことはやむを得ない判断だった面もあります。
大坂の陣という大プロジェクトのために、臨時に雇用された浪人武将たちは、豊臣家という大企業を再生する可能性を持っていた革新派だったかもしれません。しかし、生え抜きの社員だった治長は、彼らの力を借りることは必要だと感じていても、かじ取りまで任せることはできず、守りの判断を下したのではないでしょうか。
浪人たちが主張したように攻めの判断が採用されていれば、状況は変わっていた可能性があることも事実です。これは、戦国時代のみならず、現代のビジネスにおいても珍しくない岐路です。困難な状況に陥ったとき、攻めて打開するのか、守ってチャンスを待つのか。
チャレンジをすることをためらわない若手や中途採用の人材と、前例踏襲に慣れて、激変を恐れる古参社員の意見の食い違い、対立といったことも多くの企業で起こり得ることです。こうしたときに、責任ある立場である経営者はどのように判断を行うべきなのか。大野治長の判断は、会社という組織を運営する上で考えるべき多くの材料を与えてくれているように思います。