戦国武将に学ぶ経営のヒント(第19回)豊臣家の存亡を左右した大野治長の守りの判断

歴史・名言

公開日:2016.12.13

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 時代劇ファンだけでなく、幅広い視聴者の支持を集めてついにクライマックスを迎えた、NHK大河ドラマ『真田丸』。真田信繁(幸村)、豊臣秀吉、徳川家康といった有名武将のみならず、さまざまな武将が個性豊かに活躍し、ドラマに華を添えていました。

 豊臣家の重臣として終盤に活躍した「大野修理」こと大野治長も、そんな武将の1人です。今回は、三谷幸喜作品の名脇役として知られる今井朋彦さんがキラリと光る演技を見せた大野治長(1569〜1615)にスポットを当てます。

母は淀殿の乳母、秀吉の下で出世を遂げる

 大野治長は1569年生まれ。丹後国大野(現在の京都府京丹後市)の出身との説が有力です。父は豊臣家家臣の大野定長、母は秀吉の側室・淀殿(茶々)の乳母を務めた大蔵卿局。つまり、治長と淀殿は乳兄弟ということになります。

 ちなみに、生年が1567年(1570年とも)の真田信繁とほぼ同い年であり、2人とも1615年の大坂夏の陣で亡くなっているので、同時代に一生を過ごしたことになります。

 治長は、秀吉の親衛隊に当たる馬廻衆を振り出しに出世をしていきました。1589年には、20歳の若さで1万石の大名として警固番二番隊長となり、1591年には秀吉のお供で東海地方に鷹狩りへ出掛けたという記録が残っています。

 一部では「無能」との評価もある治長ですが、秀吉・秀頼と豊臣家二代に重用されたところから考えるとかなり頭の切れた人物と見るべきではないでしょうか。風流人の一面もあったようで、千利休の高弟・古田織部に茶道を習い、本願寺の顕如が開いた茶会にも招かれています。官位は従四位下修理大夫なので、「大野修理」の通称が生まれました。

大坂の陣では籠城を主張、野戦派と対立…

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