「企業は人なり」は、経営の神様と呼ばれる松下幸之助の言葉です。人で成り立っている企業にとって人材教育は大切ですが、「どのような人に入ってもらうか」を決める採用も非常に重要です。
これは、戦国時代の武将にとっても同じです。どのような人物を家臣とするかによって、家の命運が大きく変わります。家臣の召し抱えについていくつものエピソードを遺(のこ)している武将が、蒲生氏郷(がもううじさと)です。
蒲生氏郷は、1556年、近江国(現・滋賀県)中野城の城主・蒲生賢秀(がもうかたひで)の嫡男(三男との説もある)として生まれました。幼い頃から織田信長に仕え、信長の下で姉川の戦い、長篠の戦いなど数々の戦に参加し、戦功を挙げました。信長の信頼は厚く、自らの娘の冬姫(ふゆひめ)を氏郷に嫁がせています。
信長の死後、氏郷は秀吉の下に付き、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い、小牧・長久手の戦いなど重要な戦に加わっています。
氏郷は頭脳明晰(めいせき)で戦にも強かったことから「世に優れたる利発人」と評され、家臣団の統率にも才を発揮しました。
ただ、最初から家臣の扱いがうまくいっていたわけではありません。同じく信長に仕えていた大和国(現・奈良県)出身の武将、筒井順慶(つついじゅんけい)の下にいた家来が氏郷を訪ねてきました。その家来は大変な臆病者で、知将である氏郷の下なら自分でも活躍できるのではと考えたのです。
氏郷が見たところ、その家来には見どころがあります。そこで戦に出したところ、やはり目をみはる働きだったため、報酬を与えて物頭(足軽などを束ねる中級家臣)に任じました。
その後の戦にもその家来は参戦し、大きな活躍を見せました。ところが自分の力を過信したのか戦に深入りし、討ち死にしてしまいます。氏郷は「力のある者だったので取り立てたが、早く出世させすぎた。もう少し出世を伸ばしていれば、あのように討ち死にせずに済んだものを」と非常に悔やんだそうです。
「臆病者」や「卑怯者」も迎え入れた知将の狙いとは?…
その一件以来、家臣の出世には慎重になった氏郷ですが、優秀な家臣は雇い入れる必要があります。
大和国に松田秀宣(まつだひでのぶ)という侍がいました。秀宣は屈強な人物でしたが、人と言い争いになったときに殴られてしまいます。侍が殴られるというのは大きな屈辱で、自死を決意しますが、周囲に止められて思いとどまりました。以来、背に「天下一の卑怯(ひきょう)者」と入れた鎧(よろい)を着けるようになりました。
この秀宣が氏郷を訪れ、こう告げました。「私は天下一の卑怯者ですが、氏郷様のお役に立てることがあるかもしれません。お眼鏡にかなえば、お召し抱えいただきますよう」。
家来からこれを聞いた氏郷は、「召し抱えを願い出るのに、自らを『天下一の卑怯者』と言うのは尋常ではない。見どころがある」として、秀宣を迎え入れます。氏郷が見込んだ通り、秀宣は氏郷の下で戦功を挙げていきました。
一方、氏郷は知者と称される人物の登用に対しては、慎重な姿勢を見せました。玉川左右馬(たまがわさうま)という博識で弁が立つ人物がおり、家臣たちから推薦されたため氏郷も快く迎え入れました。しかし、氏郷は左右馬と10日ほど語り明かした後、左右馬に金を渡して送り返してしまったのです。
なぜ左右馬を送り返したのかと尋ねられた氏郷は、次のように答えました。「あの者は言葉巧みで、学才もあり、世で知者とされているのも分かる。しかし、私を褒めあげ、他の武将のことを悪く言い、私に取り入ろうとした。また、交友関係をひけらかして自分を誇示し、褒められようとした。このような者を身辺に置いていても、いいことはない」。
その後左右馬は他の武将に召し出されたものの、老臣を軽んじ、忠臣をねたみ、威を振るうようになりました。他の家臣からは疎まれ、主人は左右馬を追い出さざるを得なくなったそうです。
氏郷はその目で確かな人物を選び、家臣に迎え入れていました。そのことで、どのような家臣団を作ろうとしていたのでしょうか。
氏郷が目指していたのは、「和」にも「武」にも偏らない強い組織です。和を重んじすぎると士は柔弱になり、儀礼を尽くされていても、勇猛な士が少なくなる。春夏には万物が成長するが、腐りやすい季節であるのと同じだ。武を尊びすぎると士は強くなるが、儀礼が失われる。秋冬は成熟する季節だが、葉も木も枯れ衰えるのと同じだ。どちらにも偏らないように家風を正すのが、あるじの役割だ――という考えがあったのではないでしょうか。
現代の企業になぞらえると、和を重視しすぎるのは仲良し集団の会社、武を尊びすぎるのは、優秀な人材がそろっているもののギスギスした雰囲気の会社、となるでしょうか。
このバランスが、組織には不可欠。今の時代にも通じる、氏郷のメッセージです。