ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
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公開日:2018.01.16
群雄が割拠する戦国時代。それを生き延びるために重要だったのは、武力だけではありません。刻々と状況が変化する中で、誰と同盟を組むか。誰との同盟を解消するのか。この政治的な判断が、武将の運命を大きく左右しました。
勇将として知られながら29歳の若さでこの世を去ることになった浅井長政の生涯も、この判断で大きく動かされました。
長政は1545年、北近江(現・滋賀県)の領主・浅井久政の嫡男として生まれました。その頃、近江は六角氏が支配しており、浅井氏も六角氏に従属する形になっていました。浅井久政は六角氏との関係を保とうとしていましたが、浅井氏の家臣の中から六角氏の支配に不満を持つ者が出始めます。そして独立を果たすべく、長政を推戴(すいたい)して六角氏に対してクーデターを企てます。
浅井家の独立派と六角義賢は1560年、近江の野良田(のらだ)で相対します。義賢率いる六角軍は2万5千に対し、浅井長政率いる浅井軍は1万1千。倍以上の差がありました。しかし、兵力で圧倒的に不利なこの戦いにおいて浅井軍は勝利を収め、長政は武将として名を挙げます。長政はこの時わずか15歳。若き勇将の誕生でした。
近江で六角氏に代わる地位を築くようになった浅井氏に対し、尾張(現・愛知県)から美濃(現・岐阜県)へと勢力を伸ばしていた織田信長が同盟の締結を提案します。信長は、尾張、美濃から京都に上洛する際の経路として、近江を押さえておきたかったのです。
信長は妹・お市を長政に嫁がせ、結婚費用はすべて織田氏が持つという条件を出すほどでしたから、何としても同盟を結びたかったようです。この提案に対し、浅井家の意見は分かれました。なぜなら、越前(現・福井県)の朝倉氏との関係があったからです。
浅井家は、長政の祖父である亮政の代から朝倉家の庇護(ひご)を受けており、長年の恩があります。一方、織田家は朝倉家と敵対しています。信長と同盟を結べば浅井・朝倉両家の関係が悪化することは、容易に想像がつきました。
勢力を伸ばしている信長と組むか、朝倉家との関係を重視して同盟を組まずにおくか。結局、浅井氏は両方に配慮した決断を下します。織田家が朝倉家と戦わないことを条件に、信長と同盟を組むことにしたのです。そして、長政は戦いを重ねる中で近江から六角家の影響を排除、武将としての力を見せ、勢力を伸ばしていきます。
一方、天下統一を狙う信長は1568年に上洛を果たし、足利義昭を将軍として推戴。義昭に従うよう、諸国の武将に要求します。将軍の権威を利用して、自らの足場を強固なものにしようと信長はもくろんだわけです。信長と敵対する朝倉義景にとって、この要求は面白くありません。信長に対して反発を強めます。両者は対立を深め、信長は朝倉攻めを決断。越前に向かい、金ヶ崎城にいる義景を攻め立てました。
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