2018年1月から放送されているNHK大河ドラマ「西郷どん」。この中で、主人公の西郷隆盛は、渡辺謙演じる島津斉彬(なりあきら)を生涯の師として仰ぎます。斉彬は、12世紀から続く名門・島津家の第28代当主に当たります。この島津家が勢力を九州一帯に広げ、最大版図を築いたのは第16代当主の島津義久の頃です。
子どもの頃の義久は性格がおとなしく、周囲の評価では弟の義弘らのほうが後継者としてふさわしいと見る向きもありました。しかし義久の祖父で「島津家中興の祖」といわれた島津忠良は、「義久は三州の総大将としての材徳が備わっている」と評しました。その言葉通り義久は「大将としての徳」で島津家を率い、戦国の世を生き抜いて斉彬に至る道筋をつくったのです。
九州制覇に迫るも秀吉の前に屈服
義久は、島津家の第15代当主・貴久の長男として1533年に生まれました。初陣は1554年、大隈国(現・福岡県)の岩剣城攻めでした。1556年に貴久の後を継いで島津家の第16代当主になると、弟の義弘、歳久、家久らと共に領土を広げていきます。
1570年には東郷家・入来院家を下し薩摩国(現・鹿児島県)を統一。さらに1573年には大隅国、1577年には日向国(現・宮崎県)を統一し、三州の総大将となります。義久の勢いはこれに留まりません。1578年には豊後国(現・大分県)の大友家を耳川の戦いで破り、1584年には肥前(現・佐賀県)の龍造寺家との沖田畷の戦いに勝利。これにより、九州の大半を手中に収めることになります。
広大な領土を有するようになった義久。しかし、ここで前に立ちはだかったのが豊臣秀吉です。
大友家には耳川の戦いで勝利を収めたものの、その後も紛争が続いていました。この状況を利用し秀吉は、大名間の私闘を禁じる惣無事令(そうぶじれい)に抵触すると“いちゃもん”を付けてきました。これに対し義久は、惣無事令に従わないことを決断したため、秀吉は島津家討伐のために兵を向かわせます。
秀吉と弟・秀長が九州征伐に出した兵は22万人。飛ぶ鳥落とす勢いで九州を制した島津家も次第に追い詰められていきました。そして、薩摩まで後退。反撃の可能性なしと見た義久は、出家して名を「龍伯」と改めて出家。秀吉の元を訪れて降伏の意を表します。
秀吉も「一命を捨てて走り入ってきた」と義久の覚悟を見て取り、命を取ることなく赦免(しゃめん)しました。義久が降伏した後も弟の義弘らは抗戦を続けますが、義久が説得し、義弘らも降伏。新たに獲得した島津家の領土はほとんど没収されましたが、薩摩と大隈は秀吉から認められ、後の薩摩藩主としての島津家につながります。
西軍として戦い、家康にすごまれても………
滅亡してもおかしくない局面をなんとか乗り越えた義久ですが、その後、1600年の関ヶ原の戦いの際にも危機を迎えます。敗北した西軍として戦ってしまったからです。
当時、義久は出家していましたが、強い発言力を持っていました。そして弟の義弘には東軍に付くよう意向を伝えました。しかし、石田三成と親しい義弘は西軍に付くことを決意してしまいます。さらに、義久に援軍を送るよう頼んだのです。
もちろん義久は依頼に応じませんでした。やむなく義弘はわずかな軍勢で関ヶ原に参戦しますが、西軍は惨敗。義弘は敵中を突破し、多くの兵を失いながら辛くも薩摩に逃げ帰りました。薩摩に帰った義弘を義久は叱りつけ、蟄居(ちっきょ)させたといいます。
義弘が西軍に参加したことで、島津家の領土は関ヶ原で勝利した徳川家康に没収されてもおかしくありませんでした。実際、家康は九州の諸大名に島津領を包囲させます。しかし、義久は「西軍への加担は義弘が独断で決めたことで、自分は何も知らなかった」と、言い逃れをしながら時間稼ぎをします。
というのも“関ヶ原”の後ですので、徳川方も疲弊しており、全面対決は避けたいに違いないと義久は読んでいました。結局徳川方が折れ、島津家の領土はそのまま認められ、西軍に付いて敗れた義弘も命を差し出さずに済みました。
江戸時代が始まると、義弘の三男・家久が初代薩摩藩主となり、島津家の系統が続くことになります。義久は晩年、自らが築いた国分城に隠居。それからも義弘、家久と共に「三殿体制」と呼ばれる形で隠然(いんぜん)と力を振るい、1611年に世を去りました。
島津家を残すための決断の数々
戦国時代、義久より勇猛な武将、強い武将は多くいたかもしれません。義久は、「自身手を砕いた(工夫するの意味)働きは何1つない。すべては弟ら一族や家臣どもを遣わせて戦ったに過ぎず、たまたまそれが勝ちを収めただけのことだ」と言ったという話があります。創作ともいわれていますが、そうした側面があったのは確かでしょう。
しかし義久は戦国を生き抜いた名将として名を残す存在です。その陰には、失敗をしてもあきらめることなく、粘り強くリカバーする執念があったように思います。
先にも書きましたが、惣無事令に反して秀吉勢に追い詰められたとき、最後まで戦うことを選択せず、情勢を見て「これ以上戦うことはない」と判断しました。そして、抗戦する弟の義弘らを説得し、降伏させました。このとき徹底抗戦していれば、恐らく島津家は続かなかったことでしょう。
関ヶ原の戦いのときも同様です。勝者である家康に領土を差し出せと迫られたときに義久の真骨頂が現れました。敗者でありながら、徳川家の勢いと兵力を冷静に分析し、家康を怒らせないように注意を払いながら綱渡りの交渉をした結果、滅亡を免れたのです。
ビジネスにおいても、挑戦を続ける限り、判断ミスや失敗は避けられません。問題は直後のリカバーの内容です。例えば、売り上げが伸び悩んでいる新規事業や店舗があるケース。マーケットの動向、ニーズの趨勢、コンペティターの状況などを冷静に判断して、早めに損切りをしてその後の投資資金を残すという選択が後につながることもあります。
経営者として難しいのは、失敗の後始末だといわれます。より大きな領土を得ようとチャレンジして、天下人となる秀吉と家康の2人と敵対するという失敗をした島津家。しかし、その後の冷静なリカバーで滅亡を回避した義久の手腕。それは経営者が倒産という最悪の事態を避けるために見習いたい点だと思われます。