優れた戦国武将の条件といえば、やはり戦に強いこと。つまり「武」に秀でていることです。ただし、戦国武将も、戦いばかりをしていたわけではありません。茶道や歌道に親しむことが武士の教養とされていました。
そうした「教養=文」の面で飛び抜けた武将が細川藤孝(幽斎)です。藤孝は歌道の師として多くの門人を持ち、茶道、連歌、書道に通じ、囲碁や猿楽にも深い造詣を示しました。また、こちらはあまり知られていませんが、剣術を塚原卜伝(つかはら ぼくでん)に学び、弓術も一流という「武」の面でも優れていました。まさに文武両道です。
藤孝は足利義輝から徳川家康まで5人の天下人に仕えて戦国の世を生き抜きました。それを可能にしたのは、「武」ではなく「教養=文」と冷静な判断による処世術です。
数々の決断が功を奏す
藤孝は1534年、室町幕府の幕臣として足利家に仕える三淵晴員(みつぶち はるかず)の次男として生まれました。7歳のときに父・晴員の兄である細川元常の養子となり、1554年、元常の死に伴い家督を相続。室町13代将軍・義輝に仕え始めます。藤孝は幕臣として義輝を支えていましたが、1565年に運命を大きく変える事件が発生します。松永久秀と三好三人衆が、義輝を急襲して暗殺した永禄の変が起こったのです。
藤孝は、義輝の後継として、奈良の興福寺に幽閉された義輝の弟・足利義昭を救出して保護。義昭の将軍就任のため、諸大名の間を奔走する日々を送ることになりました。この頃の藤孝は困窮しており、明かり用の油も買えず、神社の社殿から油を失敬することもあったというエピソードが残っています。
こうした日々の中で藤孝は明智光秀と出会い、光秀を通じて織田信長に接近。義昭将軍就任のため、信長に助力を要請します。1568年、信長は義昭を奉じて上洛。信長の後ろ盾を得て、義昭は室町15代将軍となりました。ここまでは幕臣である藤孝の思い描いた展開でしたが、情勢は刻一刻と変化するのが戦国時代の常です。
次第に雲行きが怪しくなります。勢力を増していく信長と、将軍職にある義昭。この2人の間に緊張が増し、対立があらわになっていきます。藤孝は義昭に仕える身ですが、信長とも近い関係になっています。2人の間に挟まれる形になったわけです。
ここで、どちらに付くか。この決断が運命の分かれ道でした。異母兄・三淵藤英は義昭側に付きますが、藤孝は信長側へと立ち位置へ変えたのです。藤孝の読み通り、軍事力に勝る信長が優位に立ち、義昭を京都から追放。ここから、信長の配下に入った藤孝は石山合戦、信貴山城攻め、武田征伐など各地を転戦し、活躍します。
そんな藤孝が次の決断を迫られたのが1582年です。明智光秀が信長を急襲。信長が自害して果てるという本能寺の変が起きます。藤孝は義昭を将軍にするため奔走していたときから光秀と仲が良く、親しい間柄にありました。また、息子・忠興は光秀の娘・玉(細川ガラシャ)と結婚しており、藤孝と光秀は親戚関係でもあったのです。
当然、光秀は藤孝に援軍を求めました。それに対して義理の息子に当たる忠興は応じないという決断をします。そして、藤孝は、友であり親戚でもある光秀の要請をあからさまに拒否することなく、出家して信長に追悼の意を表し、家督を息子の忠興に譲って隠居するという形を取りました。その際に名乗った雅号が「幽斎」です。
その直後、中国地方にいた秀吉が京に取って返し、光秀を討ったのはご存じの通り。光秀が秀吉に討たれると、幽斎は秀吉から重用されて紀州征伐、九州征伐などに参戦。1598年に秀吉が没すると、徳川家康の配下へと、またもや時の権力者の下に取り入ることに成功しました。
絶体絶命のピンチを切り抜ける…
まさに、関ヶ原の戦い前夜。幽斎の子・忠興は、家康の会津攻めに参加するため細川家の主力を率いて関東に向かいます。幽斎は残った500の手勢で京都・舞鶴の田辺城を預かりますが、ここに石田三成の西軍1万5000の軍勢が襲ってきます。500対1万5000。圧倒的に不利な状況の中、幽斎は籠城戦を選択。短期で決着を付けず、城を守り続けます。
これには、文人である幽斎の計算があったと思われます。田辺城を包囲していた石田軍には幽斉を歌道の師として崇拝する者が少なからずおり、攻撃にためらいがあったのです。また、持ちこたえていれば忠興率いる主力が戻って来るという頭もあったでしょう。
そして、両軍に講和を命じる天皇の勅命が届きます。実は、幽斎は平安時代の勅撰和歌集である「古今和歌集」の解釈を秘伝として伝えられた、古今伝授を受け継ぐ唯一の人物だったのです。八条宮智仁親王は、幽斎の歌道の弟子の1人。その兄の後陽成天皇も、幽斎が討ち死にすることで古今伝授が断絶することを恐れました。後陽成天皇は両軍に講和を命じ、幽斎は城を明け渡すことになりましたが、城と自軍を守り抜いたのです。
西軍1万5000の軍勢は約50日にわたって田辺城にくぎ付けになり、関ヶ原の戦いに加わることができず、敗戦してしまいました。一方の幽斎は、京都で余生を送り、1610年に自邸で息を引き取りました。
幽斎は室町幕府の足利義輝、義昭から始まり、信長、秀吉、家康と5人の天下人の下で生涯を過ごしました。権力がどう動くか分からない戦国の世を生き抜き、徳川の治世まで生き延び、京都で天寿を全うした背景には、冷静な判断と、後ろ指を指されないようにする処世術があったように思われます。
命を賭して切り抜ける天才
幽斎は、一歩間違えると命を落としたような場面を冷静な判断で切り抜けています。前述の信長と義昭が対立した場面。幽斎は仕えてきた義昭ではなく信長側に乗り換えたため、異母兄の三淵藤英は激怒したといいます。しかし。義昭に付いた藤英は、結局は自害に追い込まれました。
幽斎とすれば、将軍推戴(すいたい/(ある人を)おしいただくこと)のために奔走した義昭への思いもあったことでしょう。しかし、それを切り替えて信長に付くという判断をしたことで幽斎は生き延びました。
本能寺の変の後の判断も同様です。親しい友人であり親戚でもある光秀から援軍の要請を受けていても不思議ではありません。しかし、光秀が長くないことを見越した冷静な判断により、勝ち馬である秀吉に乗りました。しかも、その際、出家するという手段を取ることで、光秀にも配慮したことを示し、非難を浴びないようにする絶妙のバランス感覚を見せています。
500の手勢だけで田辺城を包囲されたときの行動も見事でした。敵の軍勢は30倍。パニックに陥っても不思議ではありませんが、落ち着いて籠城戦を展開します。歌道の弟子である八条宮は開城するように幽斎に働きかけますが、幽斎は「戦わずして逃げることは武士として恥」として応じません。これによって武将としての力を見せつけます。
その一方で、同時期に幽斎は古今集の相伝が修了したとする証明状を八条宮に送っています。八条宮と後陽成天皇に自分が古今伝授の継承者であることを改めて思い出させ、天皇による講和に導いていったフシがあるのです。ピンチの中で、自分の力を見せつつ、潮時を探る行動は見事としか言いようがありません。
このような冷静な判断と非難を避ける行動が、ビジネスの世界においても重要なことはいうまでもないでしょう。例えば、取引先の選択1つをとっても、過去のしがらみを脱して、未来志向で判断できるか、そして、その決断に対して「義理を欠いた」などと非難を受けるのを避けることができるか。藤孝に学びたい機会はたくさんあります。
将来の予測は完璧にできるものではありません。シミュレーションを行っても不確定な部分は必ず残り、決断には一種の思い切りが必要になります。しかし、その決断が感情に流されたり、パニックになった上での選択になったりしたのでは、決断ではなく無謀な賭けになってしまいます。そして、いくら的確な判断だとしても、それによって非難を受けることがあれば、長期的に見れば、損をすることになりかねません。それを未然に防ぐスマートな幽斎の行動を見習いたいものです。