日本は海外の人にとって魅力的な旅行先となっています。訪日外国人は増え続けており、2017年は前年比19.3%増の2869万1000人。2018年は3000万人を突破するといわれています。
こうした訪日外国人に高く評価されているのが日本のおもてなし。宿泊先やレンストラン、店舗などでの繊細なおもてなしは、彼らに強い印象を残しているようです。
もちろん、日本流の“おもてなし”の精神は今に始まったものではありません。戦国時代の武将たちにも、おもてなしに秀でた人物は少なくありませんでした。中でも天下人となった豊臣秀吉と徳川家康のおもてなしは、さすがと思わせるものがあります。
秀吉のおもてなし
秀吉のおもてなし力が如実に表れたのが、毛利輝元を京都に迎えたときです。
中国地方を制覇していた毛利家は、織田信長と敵対。信長亡き後は秀吉と対立し、天下統一をもくろむ秀吉に抗戦していました。しかし、勢力を伸ばし続ける秀吉にこれ以上あらがうことは無理と見て、毛利輝元は秀吉に恭順の意を表すことにします。そして1588年7月、臣従の礼をとるため3000の家臣を率いて秀吉のいる京都に向かいました。
輝元の船団は安芸(現・広島県)から海路を東に進み、大坂から淀川を北上。京都西南部の淀(よど)に着きました。ここで秀吉は、臣下の大名を使って盛大に迎えます。
まず、前野長康、浅野長政、藤堂高虎らが淀で出迎え。陸路で京都市内に向かう間にも諸大名が合流し、お供の者も合わせて総勢5000人という大行列になりました。
居城である聚楽第(じゅらくだい)での輝元との初対面は、前田利家、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)など豊臣家の重臣が居並ぶ中での格式張ったものでした。しかし、こうしたフォーマルな儀式だけでは輝元との関係が縮まらないことを秀吉は熟知していました。それをカバーするために輝元の滞在中、さまざまな形でもてなしました。
2カ月間に及ぶもてなしの真意…
当時は城を案内するのがもてなしの1つでしたが、豊臣政権の重要メンバーである異父弟の豊臣秀長と徳川家康に聚楽第を隅々まで案内させます。
当時、城は軍事機密の塊ですから、敵対する武将に詳しく紹介するわけはありません。それに対して、輝元には台所に至るまで案内させたとされています。これによって、輝元は自分が豊臣政権の信を置かれるメンバーとして迎えられているのを実感したことでしょう。またその途中、秀吉が姫子(ひめこ)を抱いて現れ、雑談に加わったという逸話も残っています。このあたり「人たらし」といわれる秀吉らしさが表れています。
さらに輝元を招いて茶会や宴会を催し、8月の中秋の名月には月を見ながらの和歌会を開催。北国から初鮭が進上されたら輝元にも振る舞い、松虫を美しい籠に入れて付け届けるなど、秀吉は輝元に対して細かな気配りを見せます。この他、輝元の帰路では、秀長に奈良を案内させ、大坂では大坂城内の茶屋で茶会を催し、秀吉自らお点前を行いました。
上洛(じょうらく)したとき、輝元は秀吉に恭順の意を表す意向を固めていましたが、秀吉との対応次第では再び対立する可能性も秘めていた状況でした。しかし、約2カ月の滞在中に受けたもてなしにより輝元の心は秀吉に傾きます。その後、輝元は秀吉の忠臣となり、豊臣政権の中枢を担う五大老の大責を担うまでになります。
家康のもてなし
秀吉のもてなしはこのように見事なものですが、家康もその点では負けていません。1582年、武田家を滅ぼした家康は信長から駿河の地を拝領しました。家康はその礼として信長を駿河に招きます。このときのもてなしはスケールの大きなものでした。
家康はまず、信長一行が通りやすいように街道を広げました。そして目立った石を取り除き、街道にせり出した木の枝を切り落とし、気持ちよく通行できるように気を配ったとされています。宿泊地となるところには新たに陣屋を建て、将兵のための小屋も1000軒以上を用意、万全の受け入れ態勢を敷きました。
また、信長が富士山見物を希望していると聞くと準備を始めます。それまで富士山周辺は対立する今川家や武田家が治めていたため近づけなかったのですが、その脅威が取り除かれて見物できるようになったのです。そこで家康は、富士山の浅間大社境内に宿泊所を建てることにします。そして金銀をちりばめて豪華な飾り付けをしました。わずか1泊しかしない信長のためにです。
それだけではありません。古くから激流の難所として知られる天竜川を信長が渡りやすいようにしたいと家康は考えました。しかし、橋を架けている時間はありません。そこで舟を岸から岸に並べ、大綱でつなぎ留め、臨時の舟橋を造りました。信長は心遣いに感謝し、米8000俵余りを家康の家臣たちに贈ったといわれています。こうして、家康は信長の信頼を勝ち得ます。
ビジネスにおける“おもてなし”とは?
戦国時代のおもてなしを見てきましたが、現代のビジネスにおいても、おもてなしが必要なシチュエーションは枚挙にいとまがないと思います。飲食業などの接客業ではおもてなし自体が商品といっても過言ではありませんし、接客業以外の業種でもその重要性は変わらないでしょう。
取引先との親交を深めるために接待は重要ですし、新たにパートナーとアライアンスを組むときにもおもてなしの精神が欠かせません。戦略的におもてなしが必要なケースも少なくないと思います。
前述の秀吉の輝元に対するおもてなしは、企業がそれまで競合していたライバルとアライアンスを組むときの姿勢に通じるものがあります。まずは実務担当の実力者を迎えに出し、その後、盛大に調印式を実施。さらにビジネス上の機密があるであろう自社の施設を重役が案内し、社長自らも顔を出して歓談することで距離を縮めたわけです。
過剰な接待はビジネスにプラスに働くとは限りませんが、相手への敬意を示すおもてなしの心は相手との関係を深めることに役立ちます。輝元の心を引き寄せた秀吉、信長の信頼を得た家康の例を見ると、おもてなしの大切さ、そしておもてなしが持っている力の大きさを改めて思い知らされるのではないでしょうか。