武田信玄は諜報活動や情報の重要性を説く孫子の『兵法』を枕頭の書(ちんとうのしょ/肌身離さず読むべき書物)としていました。それだけに戦(いくさ)における情報の重要性を熟知していました。信玄の実質的な初陣は信濃侵攻です。1541年、父の信虎を追放して武田家の当主となった信玄は、領土を広げるため拠点とする甲斐(現・山梨県)から信濃(現・長野県)に攻め入り、諏訪頼重と戦いを交えることになります。
この戦いに際し、信玄は情報を集めるところから始めます。臣下30人ほどを信濃に侵入させ、頼重らの状況と動向を探りました。そこで分かったのが、諏訪家内での亀裂。諏訪の総領家と、一族である高遠頼継が対立していることが明らかになったのです。そこで信玄はひそかに頼継に接近し、味方に付けてしまいます。
1542年6月24日、信玄は信濃攻めを開始しました。そして7月2日、事前に密約を交わしていた頼継の軍勢が信玄に加勢。頼重が本拠とする上原城を攻め落とすことに成功します。この戦い、火蓋を切る前から勝負はついていたと言ってもいいでしょう。情報を集め、諏訪家内部の対立をつかみ、頼継を味方に付けた。この時点で、信玄には勝ちが見えていたはずです。
このように、信玄はその後も情報戦によって勢力を伸ばしていきます。徳川家康を大敗させた、有名な三方ヶ原の戦いもその1つです。この戦いでは信玄の軍勢が勝っていましたが、そのまま突撃するようなことはせず、家康軍の兵力、布陣などを探らせ、万全の体制を敷きました。それから家康軍と相まみえました。もちろん結果は家康をほうほうの体で退却させる完勝でした。
信玄は生涯に70戦以上を戦い、負け戦はわずかに3つという恐るべき戦績を上げました。その背景には、情報を徹底的に集め、負けない戦しかしないという信玄の情報力があったのです。その信玄が組織していたのが「三ツ者」です。
現在、忍者には戦の際、斥候(せっこう/偵察の意味)をしたり、敵の拠点に侵入したりする軍事的な任務も果たすイメージもあります。しかし、三ツ者はどちらかというと情報収集を専業にしていました。僧侶や商人、芸人などに扮(ふん)して諸国に侵入し、情報を集め信玄に報告していたのです。
集めた情報には、敵の兵力はもちろん、城やとりでの造り、家臣の動向、土地の風土、道路の状況など多岐にわたっていたといわれています。こうして日本全国の情報を集めていた信玄は、まるで日本全国を自ら回り歩いているかのような印象を他の武将に与え、「足長坊主」とも呼ばれるようになりました。
鷹狩りも戦も、まずは情報収集からスタート
天下統一の道筋をつけた織田信長も情報の重要性を熟知していた武将です。戦国時代、武将のたしなみの1つになっていたのが、鷹を使って鳥やウサギなどを捕る鷹狩りでした。一般的に鷹狩りはある程度決まった形式にのっとって行われていました。それに対して、実利主義の信長は自分流を徹底します。
信長は、まず、家来を農民に変装させ、2人1組で野原を偵察させます。獲物を見つけたら、1人は信長の元に報告に行き、もう1人が見張りを続けます。それから鷹を放して、獲物を仕留めます。つまり情報収集者を使いこなすことで、より効率的に成果を上げるやり方です。このように普段から情報の重要性を示すことで、臣下にもそれが浸透していました。
戦の際も、ある意味で鷹狩りと同様に情報収集から始めます。敵を偵察するとき、信長は忍者などではなく、臣下の武将を敵地に向かわせることを好みました。家臣を敵地に侵入させ、敵の状況を直接見てこさせます。そこで見聞きした情報を報告させ、その情報を元に戦略を立てる。これが信長のやり方でした。
こうした信長の情報収集と活用の成果が顕著に表れたのが、桶狭間の戦いです。駿河・遠江(現・静岡県)、三河(現・愛知県東部)の三国を制した今川義元が上洛を企てて西進。信長のいる尾張(現・愛知県西部)に侵攻してきました。このとき、信長軍の兵力は約3000人。対する義元軍は2万5000人。勢力の差は歴然で、信長側の拠点が次々と攻め落とされていきます。信長軍の300人が今川の前衛に攻撃を仕掛けましたが、これも撃退され、信長は次第に追い詰められていきます。
ここで信長を救ったのが情報でした。窮地にあっても信長は偵察を出し、敵陣の情報を集め、義元の軍勢がさまざまな前線や拠点に分散していることをつかみます。信長は手勢を集め、義元の本隊に集中攻撃をかける戦略を立てます。義元の陣にいたのは約4000~5000人だったといわれ、こうすれば戦力の差はそれほど大きくありません。信長は集めた手勢を義元本隊の正面に回し、攻め入りました。そして、一気に義元の首を取ることに成功します。
ビジネスで勝つための情報収集を怠っていませんか?
圧倒的な強さを誇り、急死していなければ日本の歴史が大きく変わったといわれる信玄と、誰も成し得なかった天下統一をほぼやり遂げるところまでいった信長。この2人が共に情報を重視していたのは示唆に富んでいます。
ビジネスにおいて情報を得ることが重要なのは言うまでもありません。新たな市場への進出を計画するとき、その市場にはどのようなコンペティターがおり、潜在的なカスタマー・ユーザーにはどのような属性があり、どんな嗜好を持っているのか。こうした情報が欠かせません。現在展開しているビジネスを伸ばすために、カスタマーやユーザーの動向、ニーズといった情報をどうつかみ、どのように読み解くのかが問われています。
もちろん、情報を集めたからといってビジネスの「負け戦」をなくすことができるわけではありません。いくら情報があったとしても、活用できなければ意味がありません。しかし、情報なくして戦いに挑むのは無謀です。情報を集めて、その情報に基づいて戦略を立て、勝つ確率を上げる。信玄と信長の強さの秘訣は、こんな当たり前のことを徹底したからではないでしょうか。