日本の電力は、1951年から東京電力や関西電力といった地域電力会社が当該地域で独占的に供給を行う「9電力体制」が採られてきました(1988年からは、実質的に沖縄電力を含めた10電力体制)。
それが大きく変わったのが2016年4月です。電力小売りの全面自由化がスタートし大きな話題になりました。9電力体制の成立に大きく寄与したのが「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門です。9電力体制は、日本的地域独占の象徴のようにいわれて悪者扱いされた部分もありますが、その成立には、インフラのあるべき姿と日本の発展に情熱を注いだ安左エ門の熱い思いがありました。
安左エ門は1875年、長崎県壱岐の商家に生まれました。福沢諭吉の「学問のすすめ」を読んで感銘を受けていた安左エ門は、14歳の時に慶応義塾に入学。上京に反対する両親を説得するため、4日間食事を抜いたというエピソードが残っています。
安左エ門は東京で勉学を進めますが、18歳の時、父の死により帰郷。家業を継ぎ、水産物の貿易などに携わりました。その後、弟に家業を譲って20歳で慶応義塾に復学。毎朝5時から福沢諭吉の散歩のお供をするなどして、その教えを吸収していきます。この時代に連載第6回で紹介した小林一三や後に三菱銀行頭取となる加藤武男、福澤諭吉の娘婿の福澤桃介らと出会って、親交を深めます。
ただ、根が実業の人で、すでに家業の経験もある安左エ門は次第に学問への興味を失っていったようです。それを諭吉に告げると、「卒業には大して意味はない。そういう気持ちなら、社会に出て働くがいい」と言われ退学します。
働き始めたものの、気性の激しい安左エ門に会社勤めは合いませんでした。諭吉の紹介で入った三井呉服店をすぐに退社。続いて日本銀行に入行しますが、こちらも1年たたずに辞めてしまいます。結局、慶応義塾時代に知り合った福澤桃介と共に、石炭を扱う福松商会を神戸で設立し、実業家としての第一歩を踏み出すことになりました。
北海道炭や筑豊炭を扱う福松商会は順調に売り上げを伸ばし、石炭取扱量は財閥と肩を並べるほどになりますが、投機的に炭鉱を買い取ったことが裏目に出て事業から撤退する結果となります。またこの頃、大阪にあった自宅が火事で全焼。安左エ門は、ここから2年ほど隠居生活を送ります。
読書にいそしみ、自分を省みる日々。「野心は必要だが方向が間違っていた。投機を捨て去らなければ、企業での成功も到底成し得ない」。地に足の着いた実業家としての礎は、隠居の日々に形づくられたようです。
転機が訪れたのは、1908年のことです。福松商会で筑豊炭を扱っていたことから九州とつながりがあった安左エ門は、佐賀の広滝水力電気から請われて監査役に就任し、電力分野での第一歩を踏み出します。翌1909年には、福岡に市街電車を走らせるための福博電気軌道の設立に、盟友の福澤桃介とともに参加。専務として軌道敷設突貫工事の陣頭指揮を執りました。
その後、福博電気軌道は九州電気、博多電燈と合併して九州電燈鉄道へと発展します。さらに九州地方のガス会社10社を合同させて西部合同ガスを創立。九州電気協会を設立して会長に就任するなど、電力界の実力者となっていきました。
1922年、九州電燈鉄道と関西電気が合併して東邦電力が誕生すると、安左エ門は副社長に就き、九州北部、近畿、中部にわたる広範囲の電力事業を手掛けるようになります。
当時は「水力万能論」が叫ばれ、多くの電力会社が水力発電に頼っていました。しかし、安左エ門の方針は一貫して水力・火力の併用でした。水力発電は、電力需要の増える冬季が渇水期で、需要が減る夏季が放水期となります。この欠点を、水力発電所に比べて建設費が安い火力発電所で補う。火力発電所の稼働率が高まれば発電コストが安くなり、電力需要が増える。そうすればさらに能率のいい設備を整えることができ、良い循環が生まれる。これが安左エ門の考えでした。実際に安左エ門は、名古屋火力発電所など、火力発電所を次々に建設していきます。
安左エ門の考えは、現在でいえば、原子力をはじめ、火力、水力、再生可能エネルギーまでを組み合わせて、最適な電源構成を探る「エネルギーミックス」に通じるところがあります。短期ではなく長期的に考える安左エ門の見識が見てとれます。
東邦電力は子会社の東京電力(現・東京電力とは別会社)を設立して、東京に進出。当時関東で大きな力を持っていた東京電燈と激しく覇権を争った末、2社は1927年に合併して新たに東京電燈が設立されました。安左エ門は同社の取締役に就任します。
こうして電力王への道を歩んでいた1928年に安左エ門が発表したのが「電力統制私見」でした。全国を9つの地域に分け、1地域に1電力会社とする。群小会社は合同させ、供給区域の独占を認める。官・公営の火力設備も民営に移し、全国的に電力の負荷率・散荷率を向上させる。料金は認可制とし、監督機関として公益事業委員会を設置する。これが私見の主な内容です。
当時は電力会社が次々に発電所を建設し、大量の余剰電力が発生していました。1地域に1電力会社として余剰電力をなくし、効率化を図る。これが趣旨の1つです。また、発電から送配電までを一貫経営で行うことで、電力の供給を安定させようとしました。当時は、必ずしも電力の供給が安定していなかったからです。そして、電力の供給は国でなく民間の活力で行う。これが安左エ門の考えでした。
戦前の私案を実現、電力供給体制をつくり上げる
しかし、時代は安左エ門の思いとは反対に向かいます。戦火の広まりにつれて軍部の統制が強まり、国家が電力を統制管理する方向へと向かっていきました。これに安左エ門は猛反発。軍部に追随する官僚を「人間のクズである」と激しく批判し、反対運動を続けます。
それでも時代の波は止まりません。1938年には電力国家統制法案が帝国議会に出され、翌年には日本発送電が設立。電力事業は国家管理に置かれることになりました。そして戦争に突入すると、安左エ門は一切の事業から手を引き隠居してしまいます。安左エ門の失意がどれほどであったか、想像に難くありません。
安左エ門が再び表舞台に姿を現すのは、終戦を迎えてからのことです。GHQが民主化を進める中、国家管理にあった電力事業も再編されることになりました。そこで白羽の矢が立ったのが、安左エ門でした。
安左エ門は、9つの電力会社が当該地域の電力供給を責任持って行う「9分割案」が日本の発展に有効との論を展開。安左エ門の熱意に、中央の統制を残そうとする委員や財界人、また「10分割案」を唱えるGHQも動かされ、戦後の「9電力体制」が始まることになります。そして、日本の驚異的な高度成長を目にしながら、安左エ門は1971年に息を引き取ります。享年95歳でした。
お気付きの通り、戦後の「9電力体制」は1928年に安左エ門が発表した電力統制私見を踏襲しています。安左エ門自身、私見は「戦後、再編成したのとほとんど等しい案だった」と振り返っています。
「9電力体制」は、その後、独占による価格の硬直化を招いてしまったという意見もあります。しかし、成立時点の経済、社会環境の中では決して理(ことわり)のない選択肢ではありませんでした。それどころか、「9電力体制」によって、地域の電力会社がその地域の電力を安定的に供給する体制が整ったことは、戦後日本の高度成長を実現する一因になりました。
ベストな電力制度は、その時点の経済・社会環境によって異なります。最終的な目的は、安価で安定的な電力の供給にあります。高い視点で、それを追求した安左エ門の熱い思いには、すべてのビジネスパーソンが学ぶべき点があると思います。