ビジネスWi-Fiで会社改造(第43回)
ビジネスWi-Fiを活用し、自治体DXを推進しよう
公開日:2017.03.17
百貨店の低迷が叫ばれて久しくなっています。百貨店の売り上げは1991年の9兆7130億円をピークに右肩下がりとなり、2016年は36年ぶりに6兆円を割り込みました。主力である衣料品分野では、アパレルチェーンのシェア増加、駅ビルやショッピングセンターなど大型小売施設の多様化、顧客の高齢化などさまざまな原因が指摘されています。
ここで、明治時代、現在の百貨店の原点を生み出したビジネスパーソンの行動を振り返り、業態の存在価値を確認しておくのも意味のないことではないと思います。
1904年12月17日、次のような広告が全国主要新聞に載りました。
「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用弁相成り候設備致し、結局米国に行はるるデパートメントストアの一部を実現致すべく候」
「デパートメントストア宣言」として知られるこの広告から、現代に続くデパート、百貨店が始まりました。広告主は三越呉服店。同店で専務取締役を務めていたのが「近代百貨店の祖」と呼ばれる日比翁助(ひび・おうすけ)です。
翁助は1860年、筑後国久留米藩士・竹井安太夫吉堅の二男として生まれました。郷里で小学校の教員をしていましたが、1880年、福沢諭吉を慕って慶應義塾に入学。その福沢から「身に前垂れを纏(まと)うとも、心には兜を着けよ」という士魂商才の教えを学びます。
王政復古を経て明治の世になっていたとはいえ、江戸時代の士農工商の考えが深く残っていた時代。その中で、利より義を、私より公を重んずる武士の精神で商売に当たれという諭吉の教えは、筑後の武士の家で育った翁助の心に深く刻まれました。
慶應義塾を卒業すると、三井銀行和歌山支店支配人などを経て1898年、三井呉服店に入り副支配人に就任します。しかし、翁助の前には厳しい壁が立ちはだかっていました。
明治維新によって大口の得意先であった武家がなくなったことは、呉服業にとって大きな打撃になっていました。また呉服から洋服の時代へと移りつつあり、需要が衰えていました。明治初期の呉服業は、斜陽産業と言ってもいい状態。1673年創業の老舗、三井呉服店の経営も厳しい局面に直面していました。
そうした中、三井銀行の大阪支店で支店長を務めていた高橋義雄が三井呉服店の理事に就任。米国の百貨店を研究した高橋は、ガラス張りのショーケースを導入するなど三井呉服店の近代化を図ります。その近代化をさらに推し進めたのが、翁助でした。
「日本の社会は、軍事も教育も工業も日進月歩で改良している。しかし、小売業はこの進歩から取り残されて旧幕の遺風を墨守(ぼくしゅ)している。これは大いに改革しなくてはならならない」と、翁助はその思いを語っています。
1904年、三井呉服店は三越呉服店と名称を変更。そして出されたのが「デパートメントストア宣言」でした。
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