ラーメンとともに日本の国民食ともいわれるカレー。明治初期に入ってきたのは英国を経由した欧風料理としてのカレーでした。その後、日本流にアレンジしたカレーが次々に開発されていきました。そんな中で、スパイスを利かせたタイプを「純印度式カリー」として1927年に提供し、大評判となったのが新宿中村屋です。開発のきっかけとなったのは、創業者の相馬愛蔵とあるインド人との友情でした。
相馬愛蔵は1870年、信濃国安曇郡(現・長野県安曇野市)に生まれました。松本中学を3年で退学すると、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。在京中に市ケ谷の牛込教会に通い始め、キリスト教に入信して洗礼を受けます。
東京専門学校を卒業後は北海道に渡り養蚕を学びました。当時の絹製品は日本最大の輸出品。故郷に帰ってからも研究を続け、2冊の著書「蚕種製造論」「秋蚕飼育法」を出版して蚕業界の進歩に貢献しました。
1898年には仙台藩士の娘・星良(黒光)と結婚。黒光とともに養蚕に携わり続けるはずでしたが、仙台、横浜と都会育ちの黒光は安曇での生活が合いません。そこで一念発起して上京。ここから、愛蔵の人生は大きく変化を遂げることになります。
クリームパンを日本で初めて販売
愛蔵が思い付いたのが、その頃普及が始まったパンを商売にすることでした。本郷の東大前にあった「中村屋」を居抜きのまま譲り受け、1901年に夫婦でパン屋を開業します。
研究熱心な愛蔵のこと、普通にパンを売っているだけでは納まりませんでした。相馬夫妻はある日、当時は珍しかったシュークリームを口にします。その味に驚いた愛蔵は、あんぱんの餡(あん)の代わりにシュークリームのクリームを使うことを思い付きました。こうしてできたのが日本初のクリームパンです。
1904年には新宿に支店を開業。1906年には支店を現在地(東京・新宿)に移して本店とし、新宿の中村屋がここから始まります。当時、愛蔵と同郷の彫刻家、荻原碌山(おぎわら・ろくざん/号は「碌山」)が新宿に住んでおり、中村屋によく顔を出していました。そして碌山を中心に多くの芸術家が中村屋に集うようになり、「中村屋サロン」と呼ばれました。画家の中村彝(なかむら・つね)は、中村屋裏のアトリエを住まいとします。
かくまったインド人から本格的なカレーを教わる…
その頃、愛蔵が出会ったのがラス・ビハリ・ボースでした。ボースはインドで英国からの独立運動に関わっていました。英国官憲から追われたボースはインドを脱出。身分を偽って、日本に入国します。当時の日本は英国と日英同盟を締結しており、ボースに国外退去命令が下りました。
ところが、愛蔵夫妻は自分たちに危険が及ぶことも省みず、3カ月の間ボースをかくまい続けます。このとき、ボースが相馬夫妻に振る舞ったのが本場のインドカレーでした。その後、4年半にわたってボースは各地を転々として逃亡生活を送りますが、相馬夫妻の娘・俊子がボースと結婚し、夫妻とともにボースを支えました。
中村屋は1927年に喫茶部(レストラン)を開設。ボースから教わったカレーを元に、「純印度式カリー」を発売します。当時、町の洋食屋のカレーが10銭から12銭程度だったところ、中村屋のカレーは80銭。かなり高価なものだったにもかかわらず飛ぶように売れ、看板メニューになりました。
レストランのインドカレーは、中村屋という枠に収まらずもはや新宿の名物に。また売店で扱うクリームパンや月餅なども評判を呼び、中村屋は人気店であり続けました。
それは戦争を経ても変わらず、闇市の中から再開した店舗にも人が訪れ、戦前と変わらぬにぎわいを見せるようになります。また百貨店に直売店を出し、多店舗展開を始めました。そして中村屋の隆盛を見つめたまま、1954年に愛蔵はこの世を去りました。
利益を望み、理想を持たないから滅びる
相馬夫妻がボースをかくまったのは、商売のためではありませんでした。英国からの独立を勝ち取るため命の危険にさらされることになったボースを、義心からかくまったのです。それが結果的に中村屋の看板メニューとなる純印度式カリーを生み出すことになりました。
愛蔵の足跡をたどっていると、利益を求めない行動が商売の追い風になったケースが他にも見られます。
純印度式カリーとともに中村屋のレストランの人気メニューとなっているのがボルシチです。インド料理であるカレーとロシアの家庭料理であるボルシチが共に名物料理となっているのを不思議に思いませんか。これも人の縁から生まれたメニューだからです。ボルシチをもたらしたのはウクライナ人のワシリー・エロシェンコ。相馬夫妻は盲目の詩人であったエロシェンコを衣食住にわたって支援しました。
1923年の関東大震災では中村屋は被災を免れましたが、被災者となった人々が新宿に逃れてきました。震災後で原料も手に入れにくく、食糧需給は逼迫しており、多くの店が値上げをしています。しかし中村屋は「奉仕パン」「地震饅頭」と銘打ち、値下げをしてパンや菓子を提供しました。その結果、中村屋のファンが増え、震災後には売り上げが増加することになりました。
愛蔵は、著書の中で次のように書いています。
「商人として理想と現実とが一致し得るかという問題に対し、私は自分の体験上、商人といえども理想を高く掲げ、相当の利益を上げて立ち行き得るものであると確信をもって答えることができる。むしろ現在の商人は、利益を望んで理想を持たざるが故に滅び行くのであると考えている」
単に利益を追い求めるのではなく、理想を持つ。このことが100年以上続く老舗の根底にあることの意味は、決して小さくないように思います。