経済の活性化、社会の活性化を促すためにベンチャー企業の育成が日本の大きな課題の1つになっています。政府も「日本再興計画」の中でベンチャー創出力の強化を打ち出しており、ベンチャーの育成は喫緊の課題といってもいいでしょう。
この課題は、従来の産業構造が行き詰まりを見せている現代においても、初めて行き当たったものではありません。長かった江戸時代から明治維新を経て、西欧化を進めた明治時代、大正時代も、新しいビジネスが必要とされました。そうした時期にベンチャーの育成に取り組んだ人物が、北浜銀行の岩下清周(いわした きよちか)です。
清周は、明治維新を前にした1857年、信州松代藩士の家に生まれました。東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業後、三井物産に入社。米国勤務から、仏国に赴任し、パリ支店長を務めるなど、エリートコースを歩みます。パリ時代には、遊学してきた伊藤博文、山県有朋らと交友。また、普仏戦争(プロシア(独)=フランス戦争)でフランスが敗れた原因を調べ、工業振興が国を救うとする「工業立国論」をこの頃に持ちます。
その後、三井銀行の中上川彦次郎に招かれ、1891年に入行。1895年には、大阪支店長に就任しました。清周は、当時としては型破りな銀行マンでした。清周の信念とは「事業は人なり」。門地(=家がら)や家格(=家の格式)を重視する風潮がまだ強かった時代でしたが、清周は事業家の展望や見識を重視し、可能性があると見れば積極的に貸し付けを行いました。
しかし、清周の積極融資を三井本店は快く思っていなかったようです。清周が貸付限度額を150万円から500万円に引き上げようとしたことなどで、入行の恩人である中上川とも対立。清周は三井銀行を辞すことになります。
三井銀行を辞めた清周は、関西の実業家らとともに1897年、北浜銀行を設立。専務を経て頭取に就任します。清周の銀行経営は、従来の常識とはかけ離れたものでした。この頃の銀行といえば、金のある貸元であり客は貧乏な借り手だと、客のことを一段下に見る銀行も少なくありませんでした。ところが、北浜銀行は客を丁重に扱いました。時間を守って客を待たせることがなかったのも当時は珍しがられました。
そして将来性があると判断した新規事業(当時のベンチャー企業)には積極的に融資を行いました。「銀行は、ただ金利を取ってもうければいいのではない。事業を育て、産業を進歩させ、国を富ませるのが使命である」という銀行論とパリ時代からの工業立国論を、清周は北浜銀行において実現しようとしたのです。
清周は、当時は新規事業だった鉄道事業に将来性と重要性を見て取り、支援を行います。大阪電気軌道(現・近鉄)の大阪-奈良間は、生駒山のトンネル工事に巨額の費用を必要とするため開通が危ぶまれましたが、清周はこれを全面的に支援。同社の社長に就任して工事を完成させました。
また、三井銀行時代の部下だった小林一三(こばやし いちぞう)が箕面有馬電鉄(現・阪急)の創立に苦慮していたところ、北浜銀行が株を引き受けることで決着。一三の実業家としてスタートを後押しします。
清周が支援したのは鉄道事業だけではありません。発明家・豊田佐吉に会社設立費として5万円を融資。豊田式自動織機の開発をバックアップします。豊田式自動織機が、トヨタ自動車を擁する現在のトヨタグループの礎になったのはいうまでもありません。
洋菓子の将来性にも着目。森永商店(現・森永製菓)の森永太一郎を訪れ、融資を申し入れます。清周の融資により森永商店は株式会社化し、その後、発展の道を歩んでいきます。そのほかに建設業の大林組の大林芳五郎、星製薬の星一など多くの起業家を支援。また、鬼怒川水力、阪神電鉄、広島瓦斯(現・広島ガス)といった企業で監査役を務め、「産業を進歩させ、国を富ませる」との理念を実現していきます。
銀行は倒産するが、支援を受けた企業は花が咲く
しかし、時には強引ともいえる清周のやり方は、一部から強い反発を受けていました。1914年、北浜銀行が大阪電気軌道や大林組に対して行った巨額の貸し付けが不良債権化しているという暴露記事が「大阪日日新聞」に載ります。これをきっかけに北浜銀行は取り付け騒ぎを起こし、清周は私財を投入して回復に努めますが、結局辞任。さらに背任横領で告発されてしまいます。北浜銀行は倒産休業に追い込まれて、1919年に摂陽銀行となって再出発しました。
懲役に服し、恩赦によって出所した清周は実業界を引退。富士山麓で農園を営む傍ら、救らい事業*や学校の設立に尽力しました。清周が設立した温情舎小学校は現在、不二聖心女子学院中学校・高等学校となり、クリスチャンでもあった清周の教育への思いを今に受け継いでいます。
*救らい事業=ハンセン病の予防と治療、患者とその家族への支援、治った人々の社会復帰およびこの病気に対する社会の偏見を正すことを目的とする事業
心血を注いだ北浜銀行は倒産、自らは懲役に服することとなった清周は企業家としては失敗したことになるのかもしれません。しかし、当時の判決には、現在から見ると経済への理解不足が見られるという指摘もあります。さらに数々の起業家、事業を育てた功績は決して消え去るものではありません。清周が支援した起業家、企業は後に日本の産業界をリードする存在となっていきました。
リスクのないところに発展はありません。リスクはあっても、将来性があると見込まれるベンチャーには支援する。こうした姿勢が、社会を切り開く力になっていきます。現在は金融庁も金融機関はリスクを取らなくなったという問題意識があり、その改善を図っています。清周の足跡を見ると、金融機関の役割を改めて考えさせられます。