ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2018.07.19
今年は梅雨明けが例年よりも早く、早くも本格的な夏を体験していることでしょう。この時期に悩まされるのが蚊。最近は電子式の蚊取り器具がかなりメジャーになっていますが、渦巻き型をした蚊取り線香の独特の匂いを覚えている方も多いのではないでしょうか。今回は、世界で初めて蚊取り線香を開発したKINCHO(大日本除虫菊)創業者の上山英一郎を紹介します。
「金鳥の夏、日本の夏」というキャッチフレーズから、蚊取り線香にはドメスティックな(国内向けっぽい)イメージがあるかもしれません。しかし、英一郎は早くから海外に目を向けており、それが自らのモチベーションとなっていた人物でした。積極的に輸出に取り組み、彼が開発した蚊取り線香は、現在、世界の人々の生活に欠かせないものになっています。
英一郎は1862年、和歌山県有田のみかん農家に生まれました。西洋に関心を抱いていた彼は1882年ごろに上京し、欧文正鵠(おうぶんせいこく)学館に入学。欧文正鵠学館は、クラーク博士で有名な札幌農学校でも教壇に立っていたジェームズ・サマーズが設立した英語塾です。
サマーズ一家から英語を学んだ英一郎は、かねて憧れていた福沢諭吉の慶應義塾に入学。日本は西洋に学び、世界に伍(ご)していかなければならないという諭吉の思想は、英一郎の深く共感するところでした。そして1885年、和歌山に帰郷すると実家のみかんを輸出する貿易会社「上山商店」を設立。事業家としての第一歩を踏み出します。
同じ頃、米サンフランシスコで種苗商を営むH.E.アモアという人物が、諭吉を訪ねてきました。アモアが日本のみかんの苗を求めていることを知った諭吉は、英一郎のことを思い出し、アモアに紹介することにします。師から連絡を受けた英一郎はアモアを迎えに東京まで出向き、和歌山の実家へ招待。アモアにみかんの苗を提供しました。
このときのもてなしが忘れられなかったアモアは翌1886年、お返しとして珍しい植物の種をいくつか英一郎に送ります。その中にあったのが、除虫菊の種でした。種と一緒に送られたアモアの手紙には、アメリカでは除虫菊の栽培で巨万の富を得た者がいると書かれています。
「荒れた土地でも栽培できる除虫菊なら、貧しい農家を救うことができるし、輸出すれば日本も豊かになる」。そう考えた英一郎は除虫菊普及のために各地を奔走するようになりました。
ところが、除虫菊の効能を説いても農家の反応は芳しくありません。最初は種を無償で提供すると言っても「そんなえたいの知れないものはペテンに決まっている」と栽培してもらえなかったのです。そのような状況でも、除虫菊は必ず農家を救う、そして除虫菊を日本の輸出品として育てるという英一郎の思いは変わりません。自ら栽培の手引書を制作し、農家を訪ねていきます。栽培の指導まできめ細かに行ううちに、少しずつ除虫菊を栽培する農家が出てきました。
そして1904年に開戦した日露戦争で、戦地でのシラミ対策として陸軍が大量の除虫菊粉を購入。除虫菊が注目を集めるようになります。以降、英一郎の尽力が花開き、1930年ごろには除虫菊の生産量で日本は世界一の座に就き、除虫菊は重要輸出品へと成長します。「除虫菊を日本の輸出品として育てる」という英一郎の思いは、現実のものとなりました。
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