1920年代から30年代にかけてニューヨーク・ヤンキースの主力選手として活躍し、「史上最高の一塁手」と称されたルー・ゲーリッグという選手の存在を教えてくれたのは彼の伝記映画「打撃王」だった。
ゲーリッグを演じたのは、当時のハリウッドの大スターであるゲイリー・クーパー。彼は、恋愛映画でよく見せたようなハンサムでシャイな青年としてゲーリッグを演じていたが、実際のゲーリッグの写真を見ると、その役作りは正解だったのだと思わせられる。写真のゲーリッグも甘いマスクで、柔和な笑みを浮かべている。
しかし、その風貌とは裏腹に、ゲーリッグがアスリートとして強固な意志で野球に臨んでいたことは、彼が残した数字が物語っている。ゲーリッグは1939年、後に「ルー・ゲーリッグ病」と呼ばれる難病によって球場を去るまで、14年間にわたり2130試合の連続出場を果たしているのだ。
この世界記録はよもや破られないだろうと誰もが考えた。しかし、約半世紀後の1987年6月、その記録は破られる。世界記録を更新したのは、日本の「鉄人」、広島東洋カープの衣笠祥雄、その人である。
衣笠さんは1965年に広島カープ(当時)に入団。1987年に引退するまでカープ一筋にキャリアを重ね、1987年に引退した。22年間のプロ野球生活で504本塁打を放ち、生涯打率は270という結果を残している。このうち1970年10月19日から1987年10月22日までの実に17年間、休むことなく試合への出場を続け、最多連続試合出場の世界記録(当時)を達成した。
この大記録と併せて、もう1つ気になるのが被死球記録だ。衣笠さんはプロ通算で161の死球を受けている。これは日本の球界で歴代3位の記録だ。1球の死球で連続試合出場が途切れる、いや選手生命が断たれる危険もあるだろう。それでも死球を受けた衣笠さんは、いつも痛みに耐え、投手をにらみつけることもなく、淡々と一塁に向かっていく。反対に死球を与えた投手への気遣いさえ見せる人だった。
1979年8月1日の巨人戦。巨人の西本聖投手は、7回、カープの打者2人に死球を与える。さらに続く衣笠さんにも死球を与えてしまう。これにより両軍入り交えての大乱闘に発展した。西本投手は、倒れて動けない衣笠さんの元に駆け寄り「すいません」と繰り返したという。その西本投手に衣笠さんは「俺は大丈夫。それより危ないから早くベンチに帰れ」と痛みに耐えながら声をかけたのだという。
肩甲骨骨折で全治2週間との診断を受けた衣笠さん。しかし驚いたことに翌日の試合に代打で出場を果たすと、江川卓投手を相手に痛む体でフルスイングし、豪快な三球三振でファンを沸かせるのだ。
試合後、衣笠さんは有名な言葉を残した。
「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本君のために振りました」
(日刊スポーツ 2018 年4月25日 参照)。
泣かせるじゃないですか、衣笠さん。
鉄人も熱いうちに打たれた
そうした心優しきエピソードを残す「鉄人」衣笠さんも入団当初はなかなかの問題児だったようだ。自転車通勤する選手も多い中、18歳の衣笠さんは入団時の契約金でフルサイズのアメリカ車であるフォード・ギャラクシーを購入すると、派手に遊び回り、事故まで起こしていたそうだ。
そんなルーキーを心配し、免許を取り上げると、本当のプロへと育てたのが、当時のコーチ(後に監督)である根本陸夫さんだ。技術的な指導はしなかったと衣笠さんは振り返る。
「その代わり、プロ野球選手としてどんな方向に行きたいのか、実際にどんなことができるのか、何をすればいいのか。そういう心構えやモノの見方をコンコンと説きながら、アイデアやヒントをくれるんです。だから僕が活躍できたのは全部、根本さんのおかげ」
(赤ヘル偉人伝~広島カープ黄金戦士かく語りき グレート巨砲著)
高校を卒業したばかりの18歳の青年には、きっと進むべき方向をさし示した根本さんの言葉が染みたのだろう。「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるが、人も熱いうち、若いうちにプロとして、企業の場合は社会人、組織人としての意識付け、方向付けができるようなサポートが大切だと教えられる。
衣笠さんは現役引退後、野球解説者やテレビのコメンテーターなどとして広く活躍されていた。最後の解説になったのは、2018年4月19日に放映された横浜DeNAベイスターズ対読売ジャイアンツのゲーム。そのわずか4日後、衣笠さんは病のために亡くなられた。ユニホームを脱いでも、最後まで衣笠さんは「鉄人」だった。