有森裕子さんは、1992年に開催されたバルセロナオリンピックの女子マラソン競技で銀メダルを獲得した。日本女子陸上競技においてメダルを獲得したのは、1928年のアムステルダムオリンピックの女子800mで銀メダルを獲得した人見絹江さん以来2人目であり、実に64年ぶりの快挙だった。
さらに有森さんは続く1996年のアトランタオリンピックでも見事銅メダルを獲得し、二大会連続のメダリストとなった。日本の女子陸上競技史上で複数のメダルを獲得したのは、有森裕子さんただ一人。素晴らしい実績だ。
そしてその実績と共に、有森裕子というアスリートを際立たせているのは、マラソンこそが自分を輝かせてくれるものだという強い信念のもと、マラソン競技のスタートラインに立つことをめざし、自ら道を開き、想像を超えるような努力を続けた、その長い、長い物語だろう。
幼少期にそうしたハンディを背負いながらも活発な少女だった有森さんは、中学時代の3年間、体育祭の800m走に出場し、3度とも1位でゴールした。テープを切った瞬間、自分が変わったような錯覚を覚えたという。そんな成功体験が有森さんをランナーの道へと導いていった。
高校に入学した有森さんは、陸上部に入部しようと監督に直訴するがにべもなく断られてしまう。「シロウトはいらん」と。監督の機嫌が悪かったのだろうと思い、次の日も行くと「きのう、いらん、言うたじゃろうが」と怒鳴られた。その高校の陸上部は岡山県下でも知られた存在で中学時代に陸上で実績を残した生徒を選別して入部させていたので、陸上競技の経験がなかった有森さんは対象外だったのだ。
それでも有森さんは、「わたしは走りたい!」と何度も熱く訴え続けた。そして1カ月近くたってから、「そうまで入りたいんならやってみい」と、半ば根負けした監督に入部を許されるのである。
陸上部では他の部員の何倍も練習したが、思うような結果は残せなかった。毎年1月に行われる全国都道府県対抗女子駅伝は、陸上部員の大きな目標だった。有森さんは1年生の時から3年間代表には選ばれるものの、いつも補欠だった。
2年生の時、補欠でのぞんだ女子駅伝の開会式で忘れられない唄と出会う。「受験生ブルース」で知られる歌手の高石ともやさんがギターの弾き語りで披露した唄だった。
「頑張ってきた自分を全部わかっているのは自分自身」
そのフレーズを聞いたとき、はっとした
「人がほめてくれるのを待つより、自分で自分をほめるのが自然なこと」
この歌はわたしの歌だ、と有森さんは涙を流しながら聞いたという。オリンピックの栄冠はまだまだ先の頃だった。
また狭き門をこじ開け、リクルートへ
高校卒業後、父と同じ教師を目指し、有森さんは日本体育大学に進学する。いつか大きな大会で記録を残したいという気持ちを秘めながら。それでも大学の4年間も泣かず飛ばずで終わってしまいそうに思われた。
しかし4年生の時、岡山県のナイター記録会で自己2番目のタイムを記録する。これが有森さんの情熱に再び火をつけた。ちょうどその頃、リクルートに発足したばかりの女子陸上部があると知る。当時の株式会社リクルートの女子陸上部は、後に有森さんのみならず、高橋尚子さんを金メダリストに育てあげた小出義雄監督を迎え、部員には高校時代に国体やインターハイで実績を上げた有望な新人たちが顔をそろえていた。大卒者は採用ターゲットではなかった。
1988年の秋、有森さんは小出監督を訪ねた。国体もインターハイにも出場経験がない。アピールできる記録もない。しかし、それは承知の上だ。有森さんは、高校の陸上部も頼み込んで入れてもらった、やる気だけは誰にも負けないと自分を売り込んだ。その熱意に小出監督は「──強い選手はいる。じゃ、そのやる気を買おうか」と応じたという(わたし革命より)有森さんはまた狭き門を自分の熱意で開き、リクルートに入社した。
そして小出監督の指導のもと、1991年、有森さんは大阪国際女子マラソンで2時間28分1秒と当時の日本記録を打ち出し2位でフィニッシュ。一躍トップランナーの仲間入りを果たすのである。
人の情熱が人を動かす。そして情熱は大きな成果を上げる際の力になる。そのことを有森さんのエピソードが改めて教えてくれる。企業が人材を重要ポストに登用する、あるいは人材採用に臨む場面でも、この人ならとその情熱を認めた人材に対しては、慣例やルールにとらわれず勇気を持って決断することも必要ではないだろうか。
アトランタオリンピックで3位に入賞した際の有森さんの言葉はあまりにも有名だ。
メダルの色は、銅かもしれませんけど、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし、初めて自分で自分をほめたいと思います
高石ともやさんの歌のフレーズに心を震わせてから、その言葉が自然と口をついて出るまでに10数年という歳月が流れていた。