現在、日本はものづくりの見直しが言われる半面、ハードビジネスからソフトビジネスへの移行が求められています。大衆に魅力的なソフトを提供して成功した先駆者ともいえる存在が小林一三(いちぞう、1873〜1957)です。創意工夫に富んだビジネススタイルで「天才起業家」「アイデアの神様」とも称されています。
一三は阪急電鉄の創業者で、日本を代表する私鉄の一社に同社を育てたわけですから、インフラの提供という典型的なハードビジネスの経営者と見ることもできます。しかし、その真骨頂は、大衆が求めてやまないソフトの提供でした。
後で詳しく紹介しますが、住宅ローンの原型を生み出して「郊外の持ち家で暮らすライフスタイル」を生み出しました。世界初のターミナルデパートを梅田に開業して「手軽にぜいたく気分」が味わえるようにしました。そして、現在も高い人気を誇る宝塚歌劇団というエンターテインメントビジネスも手がけ始めました。
こうした多岐にわたる事業が、一時の流行に終わるのではなく、いずれも時がたっても事業として継続しているところに、事業家としての一三の卓越した才能がうかがわれるのではないでしょうか。
一三は、山梨県巨摩郡(現・韮崎市)の商家に生まれました。慶應義塾大学に進学すると、山梨日日新聞に小説を連載するなど文学青年ぶりを発揮。卒業後は文才を生かすために新聞社への入社を考えますが、希望はかなわず、三井銀行(現・三井住友銀行)に入行します。
三井銀行では本店調査課主任に就くなど順調にキャリアを積んでいましたが、かつての上司に誘われ三井銀行を辞し、新たに設立する証券会社の支配人になるため大阪に赴任。しかし、アメリカで発生した金融恐慌のあおりを受けて、証券会社設立の話は立ち消えになってしまいます。
家族を抱えたまま失業の憂き目にあった一三ですが、ここで梅田と箕面、有馬方面を結ぶ鉄道会社設立の話を聞きます。可能性を感じた一三は、新たな鉄道会社・箕面有馬電気軌道に参画。専務として、実質的に経営を任されることになりました。
箕面は、紅葉の名所。有馬は、温泉で知られるところです。梅田と箕面、有馬の間は農村地帯。「行楽客だけでは鉄道経営は成り立たないのではないか」という声が一三の周りでは上がっていました。しかし、一三は違った見方をしていました。「大阪市内にも出やすく、住むのにこんなにいいところはない」。そして、鉄道建設とともに沿線の宅地開発を始めることにします。
当時、大阪市内は人口が急増しており、住居が密集していました。しかし、箕面有馬電気軌道の沿線にある池田、豊中といった地域には土地が豊富にあります。一三は、敷地面積100坪の一戸建てが集まる住宅地をまず池田に開発。当時は石油ランプで暮らす家も多かったのですが、開発した住宅には電灯を付け、モダンで余裕のある「ライフスタイル」を提案します。
もちろん、いくらそんなライフスタイルに大衆が憧れても、手が届かないのでは意味がありません。一三は金融の経験を生かして、10年間の月賦で住宅の所有権を移転させるという現在の住宅ローンの原型ともいえるシステムを開発し、持ち家を身近なものにしました。
このアイデアは大当たりとなり、池田の住宅はすぐに完売。居住者が箕面有馬電気軌道を利用するため、1910年に始まった鉄道事業も順調に軌道に乗ります。同じように豊中、桜井といった地域でも宅地開発を行い、開発事業と鉄道事業が相乗効果で事業を拡大させていきました。沿線で宅地開発を行い、鉄道の利用客を増やすという一三のモデルは、関東では、東急電鉄の五島慶太が追随し、私鉄経営の1つの典型となります。
宝塚歌劇、駅前デパート、ビジネスホテル…
箕面有馬電気軌道の利用客を増やす一三のアイデアは、これにとどまりません。沿線の宝塚にレジャー施設を造り、施設の利用客に鉄道を利用してもらう方策を考えます。この「宝塚新温泉」こそ失敗に終わりますが、そこからがアイデアマン、一三の面目躍如たるところです。
施設の中にあったプールをホールに改造し、当時前例のなかった少女だけによる歌劇の公演を思い付きます。「宝塚少女歌劇」は評判を呼び、たちまち沿線の名物に。プールを改造したホールでは観客を収容しきれなくなり、のちに宝塚大劇場を完成させ、宝塚歌劇団は一大エンターテインメント集団に成長します。
大阪の発展と一三のアイデアにより箕面有馬電気軌道は着実に乗客を増やし、1920年代半ばには始発駅の梅田駅は1日の利用客が10万人を超えるようになっていました。一三はここに目を付け、梅田駅に百貨店を作る構想を持ちます。
いまでこそ駅直結の百貨店は珍しいものではありませんが、当時はそのようなものはありません。また、現在では東急、西武、近鉄など各鉄道会社が系列の百貨店を持っていますが、当時は呉服屋が百貨店という形態に移ったケースがほとんど。鉄道会社が百貨店を経営するなど前例のないことでした。
百貨店経営に縁のなかった一三は、まず梅田の駅ビル1階に東京の百貨店・白木屋を誘致。顧客動向などのマーケットリサーチを行います。そして、白木屋との契約が満了を迎えた1929年に阪急百貨店を開業。一三のもくろみ通り、梅田駅の利用客が阪急百貨店に立ち寄り、百貨店事業も拡大していきました。
その後も一三のアイデアはとどまることがありません。「東京への出張者を相手に、シングルルームを主にしたホテルを作ればいい。価格は、東京〜大阪間の寝台列車の料金に合わせる」。この発想で開業当時、東洋最大の客室数を誇った新橋の「第一ホテル」を作ります。当時のホテルは、帝国ホテルに代表されるように基本的に富裕層向けの施設でした。ホテルの宿泊という便利なソフトを出張者という大衆に提供する、今でいう「ビジネスホテル」を発想したわけです。
エンターテインメント分野では、東宝映画(現・東宝)を設立して、当時の大衆娯楽の雄である映画の製作・配給事業にも乗り出しました。現在の阪急阪神東宝グループにつながります。
本業の鉄道事業も阪神急行電鉄、京阪神急行電鉄と社名を変えながら戦前から戦後にかけて大きく発展。関西を代表する私鉄の一社に成長します。そして1957年、グループの発展を見届けてアイデアの神様・小林一三は息を引き取りました。
郊外にローンで家を買い、私鉄で市内の会社に通い、休日はターミナル駅の百貨店で買い物をしたり、映画を見たりする。たまの出張は駅前のビジネスホテルで便利にこなす。こうした現在では当たり前になったライフスタイルを生み出したのが一三の卓越したアイデアとセンスでした。
その根底にあったのは、大衆第一主義。「すべての事業の対象は大衆であり、どんな仕事の末端も大衆につながっている」。大衆が主人公となれる社会を一三はめざしていました。その思いが、一時のアイデアではなく、長く支持される事業を創り上げる源になったように思われます。