2017年7月、パ・リーグの歴史に燦然(さんぜん)と輝く名監督の1人、上田利治(うえだとしはる)氏が80年の人生に幕を下ろした。上田氏は1970~80年代に阪急ブレーブスの黄金時代を築いたことで知られている。
その半生を振り返ると、指導者として過ごした時間のほうが長いのが特徴だ。1959年、広島カープに入団するも、肩の故障を理由にわずか3年で現役を引退。そこから指導者人生がスタートし、20年の監督生活では通算1322勝(歴代7位)、日本シリーズ3連覇(史上4人)を果たした。また20年以上の監督人生で、一度も最下位を経験しなかった(史上3人)という安定感も名監督といわれる理由である。
現役引退直後の1962年に広島のコーチを引き受けたとき、チームの主力選手はほとんどが年上だった。選手としての実績が少ない上田氏は、自分がコーチの責務を果たすためには、技術的な指導もさることながら、いかに希望を持たせるか、そして目標を失わせずにやる気を維持させるかが肝心であると考えたという。
そこで上田氏は「オレにはできなかった。しかし、素質も体力もあるキミにできないはずはない」と、自分に実績のないことを逆手に取り、選手に希望とやる気を与えたのだ。また、すべての選手に公平に接することを肝に銘じていた。上田氏がコーチとして在籍していた1968年に、広島は球団創設以来初のAクラス入りを果たす。
ビジネスシーンに置き換えると――畑違いで実績が少ないにもかかわらず、ベテランぞろいのセクションで管理者を任される場合があるかもしれない。そのとき、自分の実績の少なさから萎縮するのではなく、相手の能力に敬意を払い、やる気を引き出すことで、スタッフをマネジメントするということになる。
実力者ぞろいの“異動先”では、一緒に汗を流す
1971年に阪急の打撃コーチに就任した上田氏の置かれた状況とは――野手では中田昌宏選手(1961年本塁打王)、投手では梶本隆夫選手(通算254勝)という自分より2歳年上の主力選手が在籍していた。さらに年齢は1つ下ではあるが、プロ入りは3年先輩というエースの米田哲也投手(通算350勝)も活躍していた。広島でコーチとしての実績を積んでいたとはいえ、ともすると「外様コーチ」への風当たりが生じかねない環境だ。
そこで上田は「選手と共に苦しみ、そして笑い、喜ぶ」を持論に掲げ、主力選手たちを相手に休日返上でコーチングにいそしんだという。そんな姿を見て、ベテランたちも上田氏を受け入れていった。
こうした状況を踏まえ、西本幸雄監督や球団幹部から厚い信頼を得たのが上田氏だ。そして1974年に36歳の若さで阪急の第11代監督に就任すると、1975年にチームを初めて日本一に導くとともに、日本シリーズ3連覇まで成し遂げた。
ビジネスシーンに置き換えると――実績あるベテランが顔を並べる組織でかじを取るには、自身のマネジメント経験を背景に何かを求めるのは良策とはいえないこともある。そんなときは上田氏のように「一緒に汗を流す」姿勢でチームの士気を高めるのも1つの方法である。
マンネリ化した組織には、冷徹な人事が良薬に
上田監督退陣後の1978年から、阪急の成績は下降線をたどり始める。1980年には10年ぶりのBクラスとなり、球団幹部は強い危機感を抱いたのは想像に難くないだろう。そんな阪急の危機に、上田氏は再度監督に就任した。しかし復帰後も2位、4位と、以前のような圧倒的な強さはなかなか戻らなかった。
「多くの選手がピークを過ぎたのも確かやけど、選手の中に惰性みたいなものがあったんじゃないかなぁ」
上田氏はこのように分析し、再就任3年目で変革に動く。阪急黄金時代の立役者の1人である強打者・加藤秀司氏と、同じく強打者として知られる広島の水谷実雄氏をトレードしたのだ。生え抜きであり首位打者を獲得した経験を持っていた加藤氏だったが、全盛期を過ぎつつあった。実力に陰りの見え始めたベテランをトレードしたことは、好影響を生み、選手に緊張感を与えることになる。
大胆かつ冷徹な人事だが、功を奏した例だろう。水谷氏は移籍1年目に打点王に輝く活躍を見せたのだ。そして再就任4年目にはパ・リーグ王座の奪還に成功した。上田氏の「生え抜き功労者ですら、成績が伴わなければ放出する姿勢」が、強い阪急を呼び戻した。
初の日本一になったときにチームを支えたのは、紛れもなく山田久志氏(通算284勝、アンダースロー投手の日本プロ野球最多記録)、福本豊氏(1065盗塁、日本プロ野球最多記録)、加藤秀司氏(首位打者2回、打点王3回、二冠王1回)ら、脂の乗ったベテランたちの活躍によるものだった。上田氏は、その禁断の領域にメスを入れることで、チームの意識や雰囲気を変えた。
ビジネスシーンに置き換えると――黄金期から下降線に入った組織を率いる責任者には、冷徹な決断が必要なこともあるのだ。
弱小チームで若手を伸ばして再建
1990年に阪急電鉄からオリックスに譲渡された阪急ブレーブスは、オリックス・ブレーブス(後にオリックス・ブルーウェーブへ改名)へと経営母体が変わった。上田氏はオリックスの監督を1992年まで務め、その後4年間の充電期間を経て、日本ハムの監督に就任。1995年、上田氏に託されたのは、前年最下位に沈んだチームを再建することだった。
「初めは誰でも下手なんですから、体で覚えるしかない。練習時間も当然長くなりますよ」
これが日本ハムにおける上田氏のチーム立て直しの方針だった。この方針を基に、激しい練習に付いてきた若手が頭角を現した。リーグ優勝はかなわなかったが、上田監督在籍時の5年間で2度も優勝争いを演じるチームとなった。
さらに1998年には、金村暁氏、岩本勉氏、関根裕之氏の3投手と女房役の野口寿浩捕手が、初のオールスターゲームの出場を果たすなど、リーグを代表する選手までに育った。厳しい練習を課し、その先に出場機会を与える育成法が生んだ成果である。
ビジネスシーンに置き換えると――時代の変化があり、若手の指導に苦慮する管理職は多い。しかし時代は変わっても、経験の少ない若手に必要なのは、仕事に必要な知識や技術の習得であり、それを発揮する場所、舞台は欠かせない。
上田氏は、それぞれの環境でマネジメントを変えながら勝利を重ねた。選手生活はわずか3年だったが、20年間の監督生活では一度も最下位を経験することなく、優勝を争えるチームを育て続けたのだ。
そして監督の実績が認められ、上田氏は2003年に野球殿堂入りを果たした。上田氏の殿堂入りは、組織のリーダーに必要なものは過去の“実績”ではなく、現在の“指導力”であることを証明した。
ビジネスシーンにおいてリーダーは、さまざまな個性や年齢の部下を管理し、結果を残さなくてはならない。上田氏のように、若手の成長を促し、ベテランが実力を発揮できる指導を実践できれば、部下たちにモチベーションが芽生え、好結果を生み出せるのではないだろうか。
参考文献:
デイリースポーツ元番記者共著『野球殿堂入りに輝いた 知将 上田利治 千勝監督のリーダー学』神戸新聞総合出版センター刊