若手社員との意識のギャップに戸惑い、どのように接すればいいのかについて、思い悩み考えあぐねるベテラン社員も少なくないだろう。部下指導におけるジェネレーションギャップは、万国共通の課題である。
広島東洋カープ(以下、広島)でスラッガーとして活躍した山本一義氏も、指導者になってからさまざまな年齢の選手と接することになり、ジェネレーションギャップに戸惑ったという。山本氏の著書「山本一義の一球談義」から、そのギャップをどう克服して、一流選手を育成したのかを読み取る。
広島のリーグ初優勝は1975年だった。1950年にペナントレースに参戦してから、初優勝まで26年間も要した。その間、Aクラス入りしたのはわずかに一度(1968年3位)という弱い球団だった。山本氏は、広島が初優勝した1975年まで在籍し、中心選手として活躍。打順もクリーンアップを任されるほどであった。
1961年に入団した山本氏は、1975年に引退するまでの15年間に残した通算成績は、打率.270、171本塁打、655打点。タイトルこそ獲得できずに引退したが、広島の看板選手として活躍し、ファンから愛された。
山本氏は現役晩年に選手兼任コーチとなり、引退後も球団に残って打撃コーチを務めた。その間、高橋慶彦氏、長内孝氏などの若手が育っていった。当時30代後半だった山本氏は、20歳を過ぎたばかりだった彼らのことを、年の離れた弟のような存在に思えたと述べている。ジェネレーションギャップが小さかった若手たちは、引退直後の山本氏からあふれる情熱を抵抗なく受け止め、一流へと成長していった。
その後、広島を離れた山本氏はパリーグの3球団でコーチや監督を歴任。テレビ局の解説者を経て、1994年からヘッドコーチとして、再び広島に戻った。そのときに対面したのが江藤智氏、金本知憲氏、前田智徳氏、緒方孝市氏ら若き主力選手たちだった。彼ら主力選手に対して山本氏との年齢の差は、親子ほどに達していた。
これほど年齢が離れると、野球だけでなく日常生活からギャップを感じるものだ。例えば球場に入る際には、上着に革靴が当たり前の山本氏に対して、若い選手の服装は、山本氏からするとまるでパジャマのようなトレーニングウエアやスエットだった。そのことをある主力選手に問いかけると、「これが今の流行で、一番肩が凝らない楽なスタイルなんですよ」と返され、叱るつもりだった山本氏は一本取られてしまったという。柔らかい肩を保つことは運動選手にとって良い心掛けであり、理にもかなっていた。
このような場面で、自分の常識に固執して服装を非難してしまうと、若者たちは「このオジサンは分かってない」と思うだろう。しかし、山本氏は球場入りする姿の様変わりは、時代による選手の考え方や気質の推移を示すものと知った。そして「これからは教え方や話し方も一工夫いるぞ」と、自らの指導法を進化させる糧としたのである。
時代の変化は激しい。年齢差は成長してきた時代背景が違う証しであり、そこには必ずジェネレーションギャップが存在する。野球でもビジネスでも、そのギャップ、つまり時代の違いを頭ごなしに否定するのは、若い人からの信頼を失うことにつながる。若い人の考えを聞いた上で、年配者がその違いをどう捉えるかが大事なのだ。
「コミュニケーション」がなければ何も伝えられない
山本氏がさらに驚かされたのは、金本氏らといった主力選手よりも5歳下くらいで入団したばかりの選手たちだった。「彼らが複数で私に出会ったときは、なるべく存在を気付かれないよう体を小さく縮め目を伏せます。『〇〇君、おはよう!』とわざと名前と一緒に声を掛けると、辛うじて『おはようございます』とボソっとつぶやいてくれました。」と回想している。
ここでも、もし山本氏が「目上にあいさつもしないとは何事だ!」と怒鳴りつけていたら、若い人の心は離れていっただろう。山本氏は、「厳しそうなオジサンとの摩擦は避けたいという彼らの気持ち」に理解を示しながらも、「野球は1人ひとりの選手が連携を心掛けることが重要。相手が捕りやすい送球、相手のためにどうしても捕ってやろうじゃないかという気持ちの捕球などによってチームプレーは成り立つ」、「レギュラーを争うライバル関係といえども協力関係が出来上がらなければ、チームとしての力を発揮することはできない。気に入らないからあいさつをしないような小さい器のままでは、野球人としても社会人としても、大成はしない」ということをミーティングで訴え、「あいさつは相手の目を見て、大きな明るい声ですること」を若い選手に求めた。
あいさつは相手の存在を認める意志表示であり、野球技術の指導もこれがなければ始まらないと考えたのだ。どれだけ時代が変わっても若い人に伝わるようにするには、まず相手に理解を示すという手順は変わらない。また、年配である自分が相手を認めるという手順を踏んでいるからこそ伝わるのである。
野球やビジネスに限らず、人間関係を伴うすべての行為においてコミュニケーションは欠かせない。それを若い人に教え、実現させるのも、年配者の大切な役目であり、知恵の出しどころなのだ。
自分が学んだことを部下に伝えるのが指導の役割
山本氏はコーチとなったときに、自分が学生や現役時代に自らの目で見た一流選手の取り組みを選手たちに伝えようとした。山本氏が法政大学1年でレギュラーとして出場した頃、立教大学の4番として活躍していたのが長嶋茂雄氏だ。
長嶋氏は山本氏にとっての憧れの存在であった。長嶋氏は、たとえオールスターゲームの期間であっても日課の素振りを欠かさない。また、練習や試合前には柔軟を入念に行ってから臨む。素振りについても、力を入れて振りぬくことよりも、いかに力を抜いて構えるかに重きを置く。力を抜いて構えることにより、インパクトまで時間を短くできるのだ。実際、長嶋氏の振り始めからインパクトまでに要する時間は、王氏よりも短かったという。
一方、王氏は、かの有名な一本足打法と、毎日1500~2000回の素振りを欠かさずやり続けたことで、世界のホームラン王になった。山本氏自身がON砲のそうした取り組みを目の当たりにして、そこから学び、練習に取り組んだ。今度はそれをコーチとして次の世代に伝えようとしたのだ。
広島の元監督である三村氏を、プロ野球人生で最大の恩人と公言する金本氏も、打撃については山本氏が恩人だと話す。雲の上のような存在である王氏や長嶋氏が毎日努力していた話を、実際に見てきた山本氏から聞かされたという。あれほどの選手でもそれだけの練習をしてきたのだから、と奮起して練習に打ち込むことができたと金本氏は当時を振り返っている。
部下の指導に欠くことができない年配者の役割
世代を超えて、伝えなければならないことがある。これこそが年配指導者ならではの使命といえよう。そのためには世代を超えたコミュニケーションが不可欠であり、それを聞き入れてもらえる状況をつくらなければならない。面倒な人間関係から逃避傾向にある次の世代の人に対しても、その態度を頭ごなしに否定するのは間違いだ。彼らの考えを聞き、その価値観を認めながら、日常的に人と接することが苦手な人には、年配者から直接的なコミュニケーションの重要性を伝え続け、理解を促す必要がある。
山本氏の下で、多くの若手選手が一流選手として開花した。山本氏を恩師と仰ぐ彼らが、今度は指導者として活躍し、次の世代を育てる。このようにして、組織の中で、大切なものが世代を超えて受け継がれていくのである。
ジェネレーションギャップは、多くのビジネスパーソンの前に立ちはだかる。しかし、若い社員の態度や行動を一方的に非難したり、問題にしたりして、議論を封じてはならない。そのギャップを乗り越えたり、埋めたりすることも年配者に必要なスキルなのだ。
参考文献
山本一義『山本一義の一球談義』 溪水社
金本知憲『人生賭けて―苦しみの後には必ず成長があった』小学館