私が企業における研修などでゆとり世代について説明する際、驚かれることが最も多いのが、「28歳以下の若者は、英語の筆記体が読み書きできない」という事実です。
この話をすると「ゆとり世代はそんなにレベルが低いのですか」と思われる方が多いようです。確かに、上司世代の方々で、英語の筆記体が書けないという方はいないでしょう。ある意味、常識の一つとも言えます。
授業時間が2割、授業内容は3割も減った
しかし、この事実だけで、ゆとり世代の学力が低いと決めつけてしまうのは間違っています。彼らは、英語の筆記体そのものを学校で習っていないのです(文部科学省中学校学習指導要領第2章第4節より)。東京大学の卒業生、つまり学力が十分以上に高くても、28歳以下なら、英語の筆記体が読み書きできない人がいても不思議はありません。
ただし、学校ではそれでよくても、実際の社会では不都合がたくさん出てきます。例えば、海外と取引のある企業に勤めた場合、筆記体を使用する機会は山ほどあります。商社をはじめ、貿易会社や、商品の多くを海外から輸入している企業でも同じです。アパレル会社のブランド名が筆記体になっていて、それが「読めません」では社員は務まりません。そこでこうした企業では今、新入社員研修で英語の筆記体を教えているのです。
「筆記体を知らない」ことは一つの象徴的な事例にすぎません。筆記体を知らないのはゆとり世代が悪いのではなく、筆記体を教えていないことを知らない社会に問題があるのです。社会に出た時に不都合が起きるような教育を受けさせられたゆとり世代は、むしろ被害者と言えるかもしれません。まずは、ゆとり世代が受けた教育が、現実の社会との間にどのようなギャップを生じさせているかを知り、彼らをしっかりと理解してほしいと思います。
ゆとり世代は正確に言うと、1987年度以降に生まれた若者のことになります。この世代の若者は、それ以前の世代と比べて授業時間を2割、授業内容は3割もカットされた「ゆとり教育」を受けてきました。前述の「英語の筆記体」も、このカットされた内容に含まれていたのです。当然ですが、従来の世代と比べて様々な科目で学力がかなり低下しているのも、ゆとり世代の特徴になります(OECD生徒の学習到達度調査より)。
参考までに、団塊ジュニア世代以降の時代背景を表にまとめました。受験や就職など、激しい競争にさらされた団塊ジュニア世代と比べて、それ以降の世代を取り巻く環境が急激に変化したことがお分かりいただけるかと思います。半面、ゆとり教育を担う学校の先生の立場から見ると、極端な話、給料はそれまでと変わらずに、授業時間が2割、授業内容が3割減るのですから、導入当時はゆとり教育を肯定的に捉える声が多かったこともうなずけます。
理解の鍵は「相対評価から絶対評価へ」
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授業時間や授業内容の削減だけでなく、ゆとり世代を理解する上で、もう一つ忘れてはならない大切なことは、評価方法の変化です。この世代から、学校で生徒を評価する方法が相対評価から絶対評価に変わったのです。「ゆとり」以前の世代は、学校での評価軸は相対評価によるものでした。学習集団全体の中で、成績がどのくらいの位置にあるかによって、個人が評価されていました。これはテストの成績のような学力にとどまらず、運動会でも順位が付けられ、いい順位であればほめられ、順位が低ければほめられない、ということが常識でした。そこには、競争がありました。
ところが、ゆとり世代から導入された絶対評価は、その基準がまったく異なります。基本的にはプロセス主義の評価であり、個人個人がプロセスの中できちんと努力をすれば、結果がどうであろうとも評価されるのです。極端に言えば、かけっこが速い子どもでも、努力をしなければ評価されません。一方、かけっこが遅い子どもでも、頑張って努力をしていたら、それだけで高い評価を受けるのです。
「昨日の君より、今日の君のほうがいいね」
他の人との比較ではなく「過去の自分に比べて今日の自分が成長したらほめられる」のです。ゆとり教育以前は、学校のクラスの中で5段階評価のうち5をもらう人数、4の人数、3の人数…とそれぞれが決められている相対評価でした。しかし、これでは個人の努力について評価することができません。そこで2002年度から絶対評価が取り入れられて、努力をすれば、他の人の成績にかかわらず高い評価がもらえる時代になったのです。
絶対評価では、5をもらう人数、4の人数…を決めていません。極端な話として、クラス全員が評価5をもらってもよいのです(毎日新聞2004年5月25日付『絶対評価:「5」学校間格差最大45倍』より)。ゆとり教育は「落ちこぼれをなくそう」「個性を尊重しよう」といったスローガンを掲げて始まりました。そのため、競争や順位付けを極端に嫌いました。
その結果、学校の通知表も相対評価から絶対評価に変わりました。競争や順位付けへの嫌悪感が行きすぎたものとして、「かけっこはみんなで手をつないでゴール」「学芸会の劇は全員が主役」という意味不明の話も現実にあります。面白おかしく報道されたこともあるので、ご存知の方もいるかもしれません。
結果を残すことではなく努力がほめられる
この絶対評価で育てられた結果、ゆとり世代は結果を残すことではなく、努力をすることがほめられること、という価値観を持ったのです。それでも、従来の世代なら高校受験や大学受験という「競争する機会」に直面することによって、競争社会の厳しさを知ることができました。ところが後述するように、少子化によって大学の定員割れが起きており、推薦入試やAO入試などの枠が拡大されて「大学全入時代」(現在は、2人に1人は大学に入学)が到来しました。
受験で競争にさらされる機会が極端に減ってしまい、ゆとり世代の「(結果はともかく)努力をすればほめられる」という価値観の形成に拍車をかけました。競争に対する免疫力を付ける場が失われたわけです。
しかし、現実の社会はどうでしょうか? 管理職であるあなたのもとに部下がやってきて、「頑張ったんですが、受注できませんでした」と報告した時に、「頑張ったんだから、すばらしいよ!」と高い評価を与えることができるでしょうか?
ビジネスの世界は結果があってこそ評価される世界です。一般的な競争社会では、頑張っているかどうかは関係ありません。資本主義経済のもとで、グローバル化するビジネス競争で生き残っていくためには、むしろ「結果を出すことがすべて」と、成果主義が企業の中にどんどん取り入れられたのは、つい最近のことです。ところがゆとり世代は、社会に出てからも「頑張ったんだから評価してほしい」と考える特徴があります。結果ではなく、プロセスを認めてほしいのです。
ゆとり部下:「課長、私は頑張っています。そこを見てください」
上司:「いくら頑張っても結果が出ていないじゃないか!」
ゆとり部下:「なんで頑張ったところは認めてくれないんですか?」
これが、絶対評価で育ったゆとり世代と、相対評価で育った上司世代との間の典型的な会話です。上司世代は「頑張っているんだから(いい)」とは決して言いません。学校のテストでも、大学受験でも、結果を出さなければ評価されないという環境で育ったからです。そもそも、価値観の全く異なる上司世代とゆとり世代の会話がかみ合わないのも無理はありません。
日経トップリーダー/柘植智幸(じんざい社)