豊臣秀吉から「天下の三陪臣(ばいしん)」と評された武将たちがいました。鍋島直茂(なべしま・なおしげ、1538~1618年)がその一人。陪臣とは「家臣の家臣」のことです。現代のビジネス社会でいえば、親会社の経営者が務まるほど優秀な“子会社の役員”といったところでしょうか。秀吉をして天下を差配する能力を持つ陪臣中の陪臣と言わしめた3人とは、まず上杉家の直江兼続、毛利家の小早川隆景、そして今回紹介する龍造寺家の鍋島直茂です。※
※鍋島直茂の代わりに堀直政とする場合もあります
皆さんは『葉隠』という書物をご存じでしょうか。書名は知らなくても「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉を耳にした方は多いと思います。直茂が興した鍋島藩の藩士が江戸時代に書いた、武士道精神を解説した全11巻の書物です。日本人としての在り方、生き方を理解する助けになるとして、現在も多くの経営者が愛読書として挙げています。その中で、武士の理想像とされているのが直茂なのです。
群雄割拠の戦国時代に、直茂は主君に忠誠を尽くします。その能力と功績が周囲から認められて、トップ亡き後国主に上りつめていきます。直茂とはいったいどんな人物だったのでしょうか。
直茂は1538年、肥前の国(現在の佐賀県・長崎県)を治める龍造寺家に仕える鍋島家に生まれました。義兄弟で主君となる龍造寺隆信に重用され、隣国、豊後の国(現在の大分県)を治めるライバルの大友宗麟が領地に侵攻してきた際には、籠城戦を進言。中国地方を支配する毛利元就に援軍を要請して、大友軍の撤退に成功します。…
その翌年、大友軍が大軍を率いて再び進軍してきたとき、今度は奇襲作戦をとって敵を撃破しています。直茂は、こうした功績により隆信からの信頼も厚く、家中からも認められていました。しかし、勢力拡大を目指す隆信は次第に傲慢になり、時には常軌を逸した行動をとるようになります。直茂はそれをいさめたため、うとまれてしまうのです。
実権を握って危機を切り抜け、自らが国主に
そんな隆信は1584年、薩摩の国(現在の鹿児島県西部)の島津氏・有馬氏の連合軍との戦いに敗れ、無残にも首をとられてしまいました。隆信亡き後、龍造寺家は混乱に陥ります。というのも、家督を継いだ政家は病弱で器量も乏しく、戦国の世を生き抜くには力不足とみられていたからです。このため家中が出した結論は、実権を直茂に委ねるというものでした。
これを受けた直茂は島津氏に忠誠を見せる一方で、秀吉に接近して「九州征伐」を実行させ、まんまと島津氏の排除に成功します。同時に秀吉からの信頼も勝ち取り、事実上の肥前国主に任命されるのです。さらに関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍につき、徳川の世に肥前は佐賀鍋島藩として栄えていきます。
主家を排除し自らが国主となったわけですから、直茂のやったことは結果的に下剋上といえるかもしれません。しかし、主君に刃を向けて勝ち取ったものではありません。現代のビジネスでたとえれば、創業者が亡くなり経営危機が発生。それまでトップを支えてきた参謀役がオーナー一族や社員から要請を受けて、急きょ社長としてリリーフ登板したといったところでしょうか。
さらに全権を任された直茂が危機を脱しつつ、秀吉の信頼を得たところはさしずめ、社長としての手腕が販売先や取引先の大企業から認められて、企業としてさらなる発展を遂げたという図式でしょう。企業経営でもこうしたケースは少なくありません。記憶に新しいのはツムラ。漢方の副作用報道や創業一族のトップによる特別背任などで危機に陥りましたが、創業家ではない新社長が「バスクリン」など低収益部門を売却して漢方薬に集中。見事復活を遂げました。
こうした危機を乗り切った企業がある一方で、世襲にこだわり勢いを失った企業もあります。ダイエーがその代表例といえるでしょう。企業にとってその存続を第一とするならば、血にこだわらず能力ある者に経営を委ねる選択も必要なのです。
最後に……。直茂に主家を乗っ取るという意思があったのかどうかは、諸説あるようです。ただ、直茂は息子を初代の藩主とし、自らはその地位につかず、藩祖という立場で生涯を終えています。そんなところに直茂の人生観が表れているのではないでしょうか。