武田信玄(1521~1573年)といえば、“甲斐(現在の山梨県)の虎”と呼ばれた戦国の名将です。越後(現在の新潟県)の上杉謙信と5度にわたって戦い、後に天下人となる徳川家康を破るなどその強さは抜き出ていました。
その原動力となったのが、騎馬隊を擁する「武田軍団」でした。信玄はどのようにして軍団を育て上げ、勝負に挑んだのでしょうか。そこには、現代ビジネスにも通じる、信玄のたぐいまれなる組織運営術がありました。
簡単に武田信玄の生涯を振り返っておきましょう。信玄は1521年、源氏の流れをくむ名門・甲斐武田氏の嫡男として生まれました。しかし、父・信虎との確執が深まり、1541年、家臣の協力を得て信虎を追放します。翌年、諏訪氏の内紛に乗じて諏訪を征服し信濃(現在の長野県)へ侵攻しました。
ここで敗れた信濃の豪族村上氏らが越後に逃れて上杉謙信を頼ったことから、宿命のライバルとの5度にわたる戦いが川中島で繰り広げられることになります。一時は武蔵(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)、上野(現在の群馬県)、駿河(現在の静岡県)などにも勢力を拡大。後に天下を取る徳川家康を三方ヶ原の合戦で徹底的に撃破しました。
「人は石垣、人は城、人は堀」
そんな信玄が残した言葉に「人は石垣、人は城、人は堀」があります。ここに信玄の強さの源泉があります。すなわち信玄は「戦いに勝つために大事なのは人の力である」と考えていたのです。実際、信玄は巨大な居城は構えませんでした。企業経営でいえば、企業は人材こそすべてと考え、豪華な本社ビルは建設せずに、その分を人材育成に振り向けるといった感じでしょうか。…
信玄はこの信念をもとに戦国最強の軍団をつくり上げていきます。そのために取り入れたのが実力主義による人材登用などの組織運営法。中でも特筆すべきは、当時としてはかなり先進的な「合議制」の導入でした。信玄は重要事項については、重臣たちの意見を聞き、それをもとに決めました。時には家臣それぞれに意見を促したといいます。こうすれば、より良いアイデアが生まれ、情報共有や方針の徹底が図られます。自分たちの意見が取り入れられれば、当然忠誠心は高まり、士気も上がります。
これは当時、大変珍しいことでした。戦国時代、合戦の戦略や謀議などの重要事項は、主君と数名の重臣や側近の間で練ることが一般的でした。多くの家臣の意見を聞いていては話がなかなかまとまらないケースがあり、生き馬の目を抜く状況の中では致命傷になりかねません。また、作戦会議に参加する人数が増えるほど、情報漏えいのリスクも高くなります。
信玄に忠誠を誓い、合議制で意見を出し合った武将たちは「武田二十四将」と呼ばれました。この家臣たちが軍議する様子を描いた絵図が残されています。実は面白いことに、この絵図に描かれている家臣は23人しかいません。残りの1人は信玄本人なのです。信玄は、参加者の一人として議論の輪に入って意見を引き出していたのでしょうか。
活発な会議が会社躍進の推進力に
ここで思い出されるのが、世界的な自動車メーカーに成長したホンダの「ワイガヤ会議」です。これは、役職や年齢、性別を超えて気軽にワイワイガヤガヤと話し合う会議のことで、ホンダのオープンな組織風土を表したものでもあります。実際に数々の新技術や製品を生み出すもととなり、同社が躍進した原動力の一つともいわれています。
“ワイガヤ”は多くの組織で有益なコミュニケーション法として導入されています。最近では、独立行政法人理化学研究所を中心とした産学官連携のプロジェクトとして、国家の威信をかけスーパーコンピューターの開発に挑んだ際にも、活用されたことで注目を集めました。“ワイガヤ”の原型をつくったのは、ホンダ創業者の本田宗一郎さんです。自ら先頭に立ってオートバイや自動車の開発に当たった本田さんは、工具を手にして油にまみれながら社員たちと活発に議論していたそうです。
“ワイガヤ”のポイントは、闇雲に多くの社員を会議に参加させることではありません。大事なのは自由闊達(かったつ)に意見を言える場をつくることです。これは会議に限らず、日常の仕事でも活発なコミュニケーションが大切だということです。そうした企業風土の構築が強い組織づくりには重要なのです。