NHKの大河ドラマ「真田丸」が好調です。ドラマ前半では、主人公の真田信繁(幸村、1567~1615年)の父親である真田昌幸(1547~1611年)が重要な役回りを果たしています。演じているのは、かつて大河ドラマで信繁を演じたこともある草刈正雄さん。その演技が話題になっています。
真田氏はたとえていうならば地方の中小企業です。それが、武田氏、北条氏、豊臣氏、徳川氏といった名だたる大企業が争う中でどうやって生き残っていくのか。代表取締役社長である父、草刈正雄さんと、大泉洋さん演じる長男、信之(信幸)、堺雅人さん演じる次男、信繁の活躍が楽しみです。
今回は、時代が大きく動く中、生き残りをかけて、2人の息子と協力しながら、巧みに会社(真田家)の舵をとった昌幸を取り上げます。歴史小説などでは謀将、策略家などという描かれ方もする昌幸ですが、一体どんな人物だったのでしょうか。まずは簡単にその生涯を振り返ってみましょう。
真田昌幸は1547年、甲斐(現在の山梨県)の武田信玄に仕える真田幸隆の三男として生まれました。幼い頃に武田家で人質生活を送りますが、信玄にはその才能を見込まれかわいがられたようです。武田家の重臣として、武田二十四将にも数えられるほど重用されました。
その後、長篠の戦いで長兄と次兄が相次いで戦死したため、昌幸が真田氏の家督を継ぎます。信玄亡き後はその息子の勝頼に臣従しますが、勝頼が自害し、武田氏が滅亡した後は、織田信長配下の武将の与力となります。
ところが1582年、本能寺の変で信長が横死。旧武田領をめぐって、徳川家康、上杉景勝、北条氏直らが熾烈な争いを繰り広げる中、昌幸は豊臣秀吉に仕えることになり、1585年、次男の幸村を人質として大坂に送ります。その翌年、北条氏直や徳川家康から相次いで攻撃を受けますが、秀吉が調停、昌幸は家康の与力大名となります。
秀吉の死後、1600年、秀吉の5奉行の一人だった石田三成が家康弾劾を求めて挙兵。諸大名に協力を求めます。この天下分け目の戦いで、昌幸は西軍につきます。このため、関ヶ原の戦いの後、昌幸は家康によって改易され、次男の幸村とともに高野山に蟄居を命じられます(その後、九度山に移動)。そのまま1611年に没しています。
さて、この昌幸の生涯から現代に生きる我々ビジネスパーソンはどんなことが学べるでしょうか。昌幸は、地方の小領主に過ぎませんでしたが、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉という名将を見抜き、勢力争いの中を巧みに渡り歩きました。それは一族の存続をかけた究極のリスクマネジメントにほかなりません。
生き残りのための、父子決別
冒頭で記したように、ビジネスにたとえていえば、昌幸は中小企業の経営者です。環境が激変する中で、名経営者が率いる将来性ある大企業を見抜き、傘下に入ることで生き残りを図ったわけです。そうした洞察力を持つ、昌幸の最大の決断が「取引先の分散」というリスクマネジメントでした。世に知られる「父子決別」です。
昌幸と信之、信繁が家康の三男の秀忠に従って上杉征伐に向かっていたとき、家康弾劾をとなえて挙兵した石田三成が、昌幸にも自陣に加わるようにひそかに手紙を送ります。このとき、昌幸は2人の息子を呼んで協議。そして出した結論は、本多忠勝の娘を正室に迎えていた信之は東軍に、自らは信繁とともに西軍につくというものでした。東西どちらに軍配が上がっても、必ず真田家は生き残る――。
結局、関ヶ原の戦いで勝利したのは東軍、家康でした。昌幸と信繁は信之の嘆願もあり、命は救われ、高野山に下りました。昌幸の死後、信繁は豊臣方につき、大阪の陣で武功を上げますが、討ち死にします。一方で長男の信之は、家康から所領を与えられ、信濃松代(現在の長野県)藩主として真田家は脈々と続いていくことになるのです。
企業経営において、取引先が過度に集中してしまうことは非常なリスクです。その会社が傾けば、自社も共倒れになってしまうからです。豊臣という会社が傾いても、徳川という会社との取引で、真田株式会社は存続できる。昌幸の「父子決別」という戦略は、先の見えない環境におけるリスクマネジメントとして、見事に効果を発揮したわけです。
集中のリスクは取引先に限りません。事業分野についても同様です。最近は「選択と集中」の重要性が指摘されますが、危険も伴います。液晶分野に集中したことで、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったシャープも、同分野の業績悪化により、経営不振に陥っています。原子力分野を主要事業として選択し、そこに注力しようとしたときに、東日本大震災が起きて同分野に逆風が吹いたことが東芝の苦境の一因となりました。「選択と集中」が裏目に出れば、日本を代表する大企業でも存在が危うくなるのです。
中小企業の場合、集中の危険はなおさらです。存続を考えれば、リスクに敏感になり、時には身を切る決断も下さねばならないことを昌幸は教えてくれます。最後にエピソードを1つご紹介して終わりにしましょう。歴史小説などで策略家として描かれることが多く、実際に冷徹ともいえる決断を下した昌幸ですが、人情味あふれる親心も見せています。父子決別を決めた後、昌幸は勢力圏であった砥石城を放棄し、信之側に明け渡します。同族による戦いを避け、家康側についた信之に手柄を立てさせたといわれています。